多様性って何だろうかと最近思う。
SNSで誰かが「子どもたちの中には大人が思うような“多様性”はない。障がいの有無などに関わらず、色々な子どもたちとともに生きているのだから、子どもたちにとって“多様性”とは当たり前のこと」と言っていた。
詳しい内容は覚えていないが、このようなことを言っておいた気がする。
ニュースでもダイバーシティとか、多様性とか、よく聞くけれど「それって本当に多様性なのか?」と思うことがある。
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新宿区にできたジェンダーレストイレ。それが設置されたことを初めて聞いたのは、ニュースを通じてだった。
人々の多様性を尊重して作られたトイレ。誰でも差別されることなく使えるトイレ。
それを望んで作られたはずなのに、ニュースを聞いたときどこか違和感があった。
我々は“多様性”を都合よく消費しているのではないのか?と。
みんなが尊重される社会。多様性が認められる社会は、人々がハッピーになれることが前提としてあるはずだ。一人ひとりの幸せが根底にあるはず。
老若男女、性別など問わず、誰もが幸せになれる社会こそが多様性を尊重し、認めている社会であると想像していた。
それらに照らし合わせてみると、あのトイレはどうだろう。
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確かにあのトイレは誰でも使うことができる。
でも、誰でも安心して使えるトイレだったのだろうか?
使った人たちが全員幸せになれるトイレだったのだろうか?
SNSでは女性が安心して使えないという声が挙がっていた。これらの声に対し、非難する声も出た。
「安心して使えないと決めつけるな!使う人たち全員が犯罪をするわけじゃないんだぞ!」と言う人もいるかもしれない。
でも、そもそも誰かが不安になったり、悲しくなったり、幸せじゃなくなった時点で、何かおかしいとは思わないか?
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“多様性”は認めればいいという問題ではない。
認めたうえで、共に生きていくためにどうしたらいいのかを考える必要がある。
それを考えることは、誰かを優遇するためでも、憐れむためでもなく、一人ひとりの幸せを築くために重要なことだ。
“多様性”の裏側で、誰かが泣いたり傷ついたり、不幸になってしまっては意味がない。
このようなことを言うと、「“多様性”を尊重した社会は到底実現しない」と言われてしまうかもしれない。
確かに“多様性”を尊重し、人々の幸せを考えて社会を作り上げていくこと自体非常に難しい。“多様性”が当たり前になる世界など、夢物語に等しいのかもしれない。
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他人は他人。意見が異なるのが常である。
だから人々の意見が満場一致となって、ハッピーで即終了になることは絶対にない。ある程度妥協する必要も出てくるだろう。
でも、できるだけ一人ひとりの幸せを考えて、社会を築こうと藻掻くのが“多様性”を実現する第一歩になるのではないか。
即ち、沢山の人の声を聞くことが一番初めに求められるのだと私は思う。
もしも、お金がもらえるからとか、“多様性”は耳障りがいいからとか、ビジネスチャンスになりそうだからとか、そういった思いが先導していては本末転倒になる。
それは一人ひとりの幸せを願っているのではなく、一個人の利益しか考えていないからだ。
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社会は一個人の利益のためだけに存在しているのではない。
だからこそ、人々の声を聞こう。
情報の波に左右されて、その場で物事を決定してはいけない。
人々の声に耳を傾ける姿勢を失ってはいけない。
人々の心の叫びを無視してはいけない。
だって私たちは、ここにいるのだから。