ニュースを見るのはあまり好きじゃない。自分の生活を送るだけであっぷあっぷな状態なのに、世の中には、絶望するような事件や事故や悪意があまりにもあふれているから。
SNSの投稿欄には、自分がフォローする人、似た考えを持つ人たちが、さまざまなニュースに怒りを表明する投稿が流れこんでくる。性暴力事件、殺人事件、強盗事件。政治家の女性蔑視発言。増税、貧困問題。自死を選んだ著名人のニュース。

自分なりにニュースを受け止めることができたときは、怒りや反対意見をSNSに投稿したり、家族や友人とその件について話したりすることもある。あれはおかしいよね、ひどいよね、とか、考えが古すぎるよね、とか。

一方で、つらいニュースを目にすること、知ることすら拒否してしまうときもある。この国はどんどん悪い方向に向かっていくんじゃないか、何をしても無駄なんじゃないか、そんな暗い感情でいっぱいになり、知らないままでいることで、自分の心の平穏を守ろうとしてしまう。

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とくにつらいニュースの一つが、若い母親が秘密裏に出産し、生まれた子どもが亡くなってしまって逮捕される事件だ。父親である男性はどこで何をしているのか? 福祉や周囲の大人たちは、この最悪の状況を、どうにか防げなかったのだろうか? 長い間苦しみ誰にも相談できず、不安のなか出産に至り、我が子を殺めた殺人犯として顔や氏名を報道される女性のことを「他人事だ」「自己責任だ」とはとても思えない。

それにしても世の中に、自己責任で片付けられることが多すぎないか、と思う。

そして、その自己責任論の破綻の究極の形が、こうした事件として表れているだけで、通奏低音のように流れる自己責任論は、ほとんどすべての人の生活と地続きだ。

私は現在、たまたま幸運なために、健康で定職に就き、一人暮らしをなんとか維持できるだけの稼ぎを得ている。だが、いまの生活を支えている条件の一つでも欠いてしまったら、足場が崩れてしまったら、自分の力でまた生活をつくろう、這い上がろうとすることは、決して簡単なことではない。

さまざまなニュースと、それにぶら下がる「女性叩き」「アンチフェミ」コメントたち。

彼女らを叩く人たちに問いたい。あなたたちが感じる生きづらさは、本当に女性たちやフェミニストのせいなのか? エネルギーを向けるべき先は、本当はもっと強大な格差や制度にあって、その生きづらさの根源自体は、女性たちとも共有しているものではないのかと。

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SNSには情報があふれている。目を背けたくなることも多い。同時に、同じような不条理に怒りの声を上げる人、世の中をよくしたいと思っている人がたくさんいることも、SNSは可視化する。

自分は一人ではない、諦めない人がたくさんいる。それが、自分にとっての希望の光になっている。ニュースに対する一人ひとりの発言・発信も、数が集まれば世論になる。それぞれができることを、できるときに。自分も、連帯の輪を広げていく一員でありたいと思う。