「落ち着いて聞いてね。いわきのばあちゃん、亡くなってたの」
忘れもしない、2018年9月。大好きなポルノのライブを見に広島へ行き、帰ってきたわずか2日後のこと。朝、通勤のため乗換駅に降り立った私に、母からこう電話が来た。
父方の祖母との突然の別れを伝える電話だった。
福島県の浜通り最大の街・いわき市で生まれ育った父。
そんなことから、父方の祖母のことを「いわきのばあちゃん」と家族では呼んでいた。

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いわきのばあちゃんの家は、決して綺麗とは言えなかった。むしろ、家の中は「ここに人が住んでいいのか」と思ってしまうようなレベル。言葉を選ばずに言うと、「ゴミ屋敷」と言っても過言ではなかった。
賞味期限がはるか昔に切れている食品や調味料が台所に眠っていたり、部屋の隅にはあの黒光りの生物の死骸や糞があったりして、正直寝泊まりするのに悩んでしまう家だった。
小さい頃は、年に2~3回は泊まりに行っており、その度風呂の天井からあの黒光りが落ちてこないか心配になっていた。

それでも、いわきのばあちゃんのことは大好きだった。
私たちが行くとなると、必ず豪華なごちそうを準備して待っててくれるし、いやらしい話だがおこづかいもくれることが多かった。いとことも仲良くしていて、「大人になったら掘り起こそうね!」と、ばあちゃん家の庭にタイムカプセルを埋めたこともあった。未だに掘り返してないが。

ただ、私たちが大きくなるにつれ、いわきのばあちゃん家へ行くことがだんだん少なくなってきた。年に1回行けばいい方だったように思う。
そんなこともあり、最後にばあちゃんと会ったのは亡くなる4か月前のGW。当時、同じ福島県内で単身赴任をしていた父と、いわき駅で合流してばあちゃん家へ。久しぶりに泊まったばあちゃん家は、相変わらず泊まるのをためらってしまう様子だった。
それでも、久しぶりに会う息子と孫を、ばあちゃんは温かく迎え入れてくれた。会わない間に、ばあちゃんはすっかり腰が曲がってしまっていた。連休で混雑していた水族館を3人で訪れたが、ばあちゃんはずっと車椅子に乗って行動していた。
もう、あの頃のしゃんと歩いていたばあちゃんはいないんだなあと、年月の流れを感じた瞬間だった。

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それから半年も経たないうちに、ばあちゃんはこの世を去ってしまった。
ばあちゃんの葬式で、いとこたちと10年振りぐらいに会った。有名大学に進学したとか金融系のお仕事をしている、ということは父伝いでは聞いていたが、久しぶりに会うとなんだか照れくさいものもあった。
ただ、あんなに遊んだ私たちでも、こういう時でないと集まれなくなってしまったのだな、と悲しくもなった。

恐らく、心不全だったのだと思う。詳しいことは聞いていない。
ただ、ばあちゃんの最期は、あまりにも突然で、独り悲しいものだったはずだ。いわゆる「いわきのじいちゃん」は、私が生まれる直前に亡くなってしまい、実際には会ったことがない。じいちゃんが亡くなって以降、ばあちゃんは20年以上1人で暮らしていた。

最期は、そんな20年以上暮らした自宅で独りで迎えた。近くに住む人が、様子がおかしいと見に来たら、ベッドの中で冷たくなっていたと聞いたことがある。

あまりにも突然の別れだったので、ちゃんとさよならを言うことが出来なかった。
大好きだったということも伝えきれずに、ばあちゃんはこの世を去ってしまった。
部屋の片付けが苦手だったり、掃除が上手じゃなかったりと、ちょっと難ありな人ではあった。ただ、彼女なしでは私はこの世にいなかったことは事実だ。

ばあちゃん。この春、あなたの孫が一生を添い遂げたいって人と結婚するってよ。
……私じゃなくて弟がだけどね。笑