昭和40年代に生まれた私は、幼いときから父に、田中角栄がいかに優れた政治家かを聞かされていた。
「小学校までしか出ていないのに、東大卒の議員の上に立っているんだぞ。話も上手くて日本を変える男だよ。総理にもなって本当にすごいな」
何しろ父は新潟出身ときている。中国との国交を正常化し、総理大臣に上り詰めたこの同郷者を崇拝していた。
「上野にパンダがいるのも角栄のおかげ。新潟まで新幹線で行けるようになったのも、角栄がいたからだ。本当にありがたい」

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このあとに起きたロッキード事件のことを私は忘れない。アメリカの航空機製造会社であるロッキード社から、違法な政治献金を受け取った罪で、連日、田中角栄の名がニュースで報じられるようになった。

小学生に賄賂などはよくわからなかったけれど、何か悪いことをしたのだと悟った。父は連日新聞やテレビにかじりつき、眉毛をハの字にして成り行きを見守っていた。有罪判決が下ったときには下を向き、ボソッとつぶやいた。
「角栄はもうダメだな」

一方、小学校や中学校では、先生から父と真逆の話を聞いた。
「国会議員は日本全体を考えて行動しないといけません。特定の地域に新幹線を開通させた議員がいましたが、それは間違いです」
私はすぐに誰のことを指しているかわかったし、先生の言うことはもっともであると思った。別の先生は「総理大臣でありながら、罪に問われた人がいます」とも言った。それは事実だし、教員として正しい知識を伝えていると理解した。

でも、父には父の主張がある。

冬は雪に閉ざされる豪雪地帯に住んだことがないと、除雪作業の苦労や不便さはわからない。背丈よりも高く積もった雪と戦い、1階のドアが開かないときは2階の窓から出入りしたり、スコップ片手に、吹雪の中で屋根の雪下ろしをしたりと、上京前の父は大変な思いをして新潟で暮らしていた。

いち早く新幹線が開通したことで、どれほど明るい気持ちになったかを聞き、地元出身の議員を応援する一市民の気持ちもよくわかった。

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その後、田中角栄が政界の表舞台に登場することはなかったが、支持者の想いは娘の田中真紀子に引き継がれたようだ。真紀子が初当選したとき、父はこれまでのうっぷんを晴らすようにはしゃぎ、喜んでいた。

父がサラリーマンをしていたとき、年に一度、家族で長岡に住む父の兄を訪ねる習慣があった。埼玉県から高速に乗り、一般道に下りて浦佐駅前を通過するとき、ひときわ目立つ銅像が目に入った。
「あっ、田中角栄だ」
そこには角栄が右手を上げて、得意の「よっ」と挨拶する姿があった。事件が発覚し、失脚してもなお愛される理由は人柄ゆえか。
父はニヤリと口端を上げ、銅像に目をやり満足そうにアクセルを踏んだ。

金権政治として悪いイメージが後世に伝えられた田中角栄であるが、功績については石原慎太郎の『天才』でも取り上げられている。若い方にも知っていただけるとよさそうな気がした。