職場で「賢く使う」「共存する」ことが推奨されていることもあり、ChatGPTを数回使ってみた。

「今こういう状況で、こういうことをしたいのだけど、何か方法はある?」

プロンプトはなるべく具体的に、というコツを意識して送信。特有の早口で返ってくる文章の2行目あたりで「あぁ、そうじゃないんだけど」とがっかりする。

でもその返答から自分のやりたかったことを客観視することができて、最終的に解決したから結果オーライ。よく言われる「AIは使い方しだい。脅威になるのはAIではなくAIを最も使いこなす人々」というのを体感した。

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この経験を今ふり返りながら、私たちにとって、想定解を得られないもどかしさというのは思いのほか重要なのではないかと考える。いや、「もどかしさ」に限定する必要はない。意外性、戸惑い、疑念......ひっくるめて「ギャップ」「あそび」とでも言えるだろうか。

大急ぎでやらなきゃいけない仕事があって、1秒も無駄にできない状況なら、解決策やゴールに辿り着くのはもちろん早い方が良いだろう。ほかにも、危険のともなう作業や少しの狂いも許されないような作業。こうした状況では、ぜひAIに助けて頂きたい。

では何もかもより早く、より正確に、より楽にこなせれば良いのかと問われればそうではない。コスパ・タイパを重視するような職場でも、やはりAIに任せたくない場面はある。

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チームワークの仕事で後輩がミスをする。「なぜそのやり方をしたのか?」と問いかける。後輩はうまく答えられない、あるいはよく分からないことを言い出す。

正直に言えばイライラもするけれど、粘り強く話し、自分も同じ作業をやってみると「そういうことだったのか」ということになる。この時、要因が特定できたということだけでなく、「どうすれば人に伝わるのか」という思索や「返ってきた言葉の外にも要因があるかも」といった想像がおそらく生まれている。

高性能なAIが相手ならば、「なぜ?」に対してきっと一発でほしい回答をしてくれるだろうし、そもそもミスなんて起こらないかもしれない。意外性もあそびもない展開。一見効率的で良いようだが、仕事という仕事、コミュニケーションというコミュニケーションがこんな展開ばかりになれば、ものすごく一様で面白みのない世の中になるだろうなぁ、と思う。

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しばしば私たちをいらつかせ、傷つけ、絶望もさせる「ギャップ」は、あなたとわたしとの間の溝であり、つまりは私を私たらしめるものなのだと思う。

「人はそれぞれ違うから面白いんだ」という決まり文句に行き着いてしまうようだが、AIについて考え始めると、このクリシェは避けて通れないようなのだ。人間社会で起こるさまざまな「ギャップ」に起因する負の感情や対立。

その解消がただちに、希望や幸福につながるわけではない。でこぼこな私たちの社会を、AIが平らに均していく想像は容易にできるのだが、そこに立つ人々の表情や気持ちを想像するのはとても難しい。

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最近は、AIがそのような「ギャップ」も含めて人間の代わりを務めるという状況も想定できるような話を聞くが、そうなるともはやAIに何を求めているのかよく分からなくなってくる。

何はともあれ、AIについて考えるということは私たち人間について考えることでもある。シンギュラリティとかAI脅威論にぞっとする気持ちもありながら、「人間とはなにか」という問いへの答えなど当面のあいだ見つからないだろうから、力まずに眺めるのもありかなと思う今日この頃である。