雨がさめざめと降り注ぐ、春の初め。小川がまるく水の泡をはいているのを見ながら、私は、幼い頃に母と手をつないだ記憶ーー彼女の手のひらの感触、を思い出していた。 

私は一日に一回、なにかしらの買い物をする。スーパー店頭に並ぶ艶やかな野菜や果物を片手に、今日の献立を考える。あるいは、ビニール袋や洗剤といった日用品をこまごまと購入したり。一人暮らしをしてから、ひとが生きて暮らすためには、ささいな日用品や食材に随分と囲まれるものだなあ、と日々驚かされる。
そんな日常生活を送る私の好きな家事は、買い出しをすることだ。ほんのり暗い湖の底を覗きこむように思い返してみると、母との幼少期の記憶が思いあたった。

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幼稚園生から小学校中学年になるまで、私は母にスーパーに連れて行ってもらうたび、お菓子を買ってもらっていた。合言葉は、「百円まで」。
ネックレスや指輪といったアクセサリーが入った菓子や、キャラクターガム。チョコレートからクッキー、グミなど、百円ほどのお菓子を探しては、母が持つ買い物かごに入れてゆく。駄菓子を買うときは、ちょっと頭を使い、百円の金額に達するまで品定めをする。その一連の流れは、幼い私にとって、小さな宝箱を掘り起こすような作業だった。

お菓子を買ってもらうという喜びは、もちろんあったのだが、それ以上に私は、そういう「やり取り」を母とすることが好きだった。自分が問いかける「お願い」に対して、母が素直に「うん」と頷いてくれる安心感。
「百円までならお菓子を買っていい」という約束に、思わず頬がくすぐったくなるような母の愛情を感じていたのだった。
買い物し終えた帰り道、スーパーの袋をさげた母と手をつなぐ。汗ばんでぬるんだ手の感触は、一般的には、好ましいものではないかもしれない。けれど、私にとっては、体温で夕陽を溶かすような、とろんとまどろんで心地よいものだった。

母と手をつないだ思い出が浮かんだのは、こんな場面に遭遇したからである。
雪のちらつく日、赤ん坊が、頬を桃色に染めながら、若い母親におんぶしてもらっている。赤ん坊のまつ毛に、粉砂糖のようにそっと雪がかかっていて、透明感に包まれて、なんて美しいのだろうと嘆息した。
きっと、この赤ん坊は、大きくなったときに思い出すだろう。柔軟剤と体温が溶け合った匂い、母親のかすかな温もり。
そこには、自分は確かに愛されていたのだ、という深い実感とともに、懐かしくも甘い愛情の結晶がある。

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現在の私には、子どもを将来育てるというヴィジョンが想像できない。私自身、まだ社会人でないこともあり、心のどこかで「子ども」でいるからだろうか。それに、今の私は、摂食障害の影響で月経がない。身体が回復すれば再開するそうだけれど、いつになるか分からないし、しばらくかかると言われている。
それでも、将来、私も自分の子どもと買い物に出かけてみたい。いつかの母のように、お菓子を買ったり、汗でぐっしょりした額をぬぐってやったり、そういう日常のささやかな営みを築いてみたいのだ。

正直、自分の身体でどのような仕組みが欠落しつつあるのか、不安でいっぱいだ。しかし、私の中に埋もれた母の愛情と思い出は、ぼんぼりの灯りのように、そうっと心を温めてくれる。そして、回復するのが恐ろしいという症状のある病気に対して、「このまま回復してもいいんだよ」と応えてくれるようにも思う。
いつの日か、我が子の手の温もりを感じるためにも、薄氷をまとった萌芽のように、これからも頑張っていくつもりだ。