自己肯定感の低い私は、「恋」と「依存」と「搾取」がいびつに絡み合っている時期があった。今でこそ若さゆえの過ちだ……とシャアのように思い返せるけれど、当時の自分はいつも悲しいくらいに必死だった。
そんなまだ未熟な頃を思い返すことは、いささか黒歴史を掘り返すようでいたたまれなさを伴うけれど……今もなおそんないびつの中にもまれている子がいるかもしれないから、後学の為、恥を承知で書き記しておこう。

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「見かけより尽くすタイプ」とアン・ルイスは歌うけれど私は見かけの通り尽くすタイプというか、尽くしすぎてしまうタイプである。それは心の底からの献身ではなくて、ちょっとまあ歪んだ献身で。相手のために動いてるつもりでも、なんだかんだ巡り巡って自分の為の行動だと今ならわかる。不安なのだ。

たとえ「好きです」「私も」という段階を踏んで、正式に交際が始まったとしても、「本当に好いてくれているのだろうか」「私なんかでいいのだろうか」に常に怯えているからそれを埋めるためにも尽くすことで安心しようとしてしまう。

良い人ならば、「そんなにしなくてもいいよ」で終わりだけれど、私が惹かれてきた人はその不安をつんつんと突き煽るような人が多かった。それはきっと「恋」などという甘酸っぱいものではなくて、「恋」のお面を被った搾取に近い。

自分でもやんわりと疑問を感じながらも、そのはてなマークを無理やり封じて、貴方の色に染まりますと、「右を向けといわれたら右を向く」ような奥村チヨが歌う昭和の女のようなスタンスで、離れないように、繋ぎ止めるために血眼になって尽くしすぎていた。
でもそんな関係は決して長くは続かなくて、いつも削ぎとられるだけ削ぎ取られて終わっていた。そしてまた同じような関係を繰り返していた。

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今の私はというと、自分を殺してまで人に好かれたいとは思わないし、ありのままの自分を拒まれるならばこちらから願い下げである。そんな自分を好いてくれる人がいないとしても、おひとり様上等なのである。
自分ではない誰かを拠り所にしてはいけない。自分の意思や願いに反して簡単に消えてしまうから。

まあそう考えられるようになったのはここ数年のことであり、少しずつ青さを失い熟してきたとでも言おうか……まあシンプルに自分もなんだか年を取ったと思う。
かつてはよく大人が「大人のいうことは聞いておくもんだ」なんて言うたびに、数十年長く生きてるだけでなんだよ!と思ったものの、今そうして熟しつつある自分はその言葉の意味がよくわかる。

先日ミスドの店内で「別れたくない!なんだってするから」という女の子を横目に、かつての自分と重なった。愛らしくも思うし、哀しくも思う。肩を叩いて「こんなやつの為に自分を犠牲にしなくていいんだよ」と言ってあげたかった。さすがに言えないけれども。
でももし今かつての自分のように疑問符を浮かべつつ心を削っている人がいるとしたらこのエッセイが届いてほしいと思う。誰かの声に耳を傾ける余裕などないかもしれないけれど、疲れきって抜け殻になったときに少しでも染みてくれたならばそれで、いい。

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さて、そんな「恋」のようなもので私の心は傷ついてその分だけカサブタとなり、まだまだ弱いものの、ほんの少しは強くなった。

そしてもう1つ。
当時二回り上の女性に恋をしていたものの、人生最大に太っていた私。
「そんなに太っている人は無理」といわれて一念発起し16キロの減量に成功し現在もそれをキープ出来ている。失うものも泣く数も多かったけれど、ぷよんとした腹の肉を成仏させられたことは私にとってはとても大きいし、健康的だ。