二年前、私は成人式に行かなかった。行かなかったというよりも、行きたくなかった。正式には「二十歳の集い」という名の成人式だったけれど、そこで同級生との再会を選ばなかった自分に、まったく後悔はしていない。
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もう随分と前から「成人式には行かない」と決めていた。もともと私は、大勢で集まってワイワイ騒ぎ立てることが苦手で、そういう場にいるのが窮屈で仕方なかった。コロナのおかげで、ほどよい距離を保ちながら人と接することができていた三年の間に、気づけば私は成人していた。成人してしまったといってもよい。
そうすると、目の前にはいつも選択の連続が迫っていると思う。この、「成人式に行くか、行かないか」も大きな選択だともいえる。最終的にはやはり成人式に断固として行かなかったけれど、何の後悔もしてないからこそ、私にとってやりたいことを遂行できたのだと思う。
もし成人式に行っていたら、中学時代の同級生と再会して思い出話に花を咲かせていたのだろう。でも、その人生の断片である場面にいることを私は選ばなかった。二十歳の誕生日を迎えて一か月がたったころ、自宅に二十歳の集いの招待状が届いた。
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それを見た瞬間、うっとうしくて、こんなの捨ててしまえ。と反抗的な態度をとった当時の私は、いま振り返ると病んでいたのだと思う。当時といってもまだ二年前のことで、成人式の招待状の出欠欄に迷わず「欠席」にまるをつけた私は、今思うと思春期真っ盛りのどうしようもない中学生のようだった。
そうこうしているうちに、年が明けて成人式の日が訪れた。その間にも、高三のときのクラスメイトからグループラインで同窓会の誘いが送られてきた。女子は一クラス10人だけだったので、「2月に大阪で飲みに行こう!」と誘われても、そのクラスメイトの提案が私には遠い昔に出逢った知人の言葉としか思えなかった。
だから、そのときはクラスメイトとの再会を選ばなかった。もしその誘いが、自分のなかで忘れられない人からのものだったとしたら、私は嬉しさのあまり震えていたかもしれない。しかし、高校時代は廊下で声が大きい野球部の集団とすれ違っただけで、その騒がしさにビビっていた私には「運命の出逢い」などとは無縁であった。だから迷わず、二十歳の集いの招待状に対して「欠席」という選択を下すことができたのだと思う。
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「先の話やけど、みんな成人式では子供に戻って遊びまわったほうがええって」
「何それ(笑)。そんなこと急にどしたん?」
「大学生の姉ちゃんが言ってた」
「ふうん」
いまは退会した中学時代のグループラインで飛び交っていた言葉が、二十歳の自分に突き刺さってから今二十二歳の自分にまたかえってきているところだ。成人式は、なかなか会えない友達や幼馴染と再会し、子供の頃に戻ったように無邪気に遊びまわることができる日。本当にそうだとすれば、私はその楽しさを知らないまま、この先もあっという間にどんどん大人として認められ、現実の世界でもまれてはのまれていくことを避けられないのだろうか。
そう思うと、クラスメイトとの再会を選ばなかったあの頃の自分が馬鹿バカしいと思えてくる。それでも、この先もっと、どれだけ辛くても選択しなければいけないときがやってくるのだ。選択を迫られるということこそが、大人になった証でもあると、最近感じていた。
ずっと、人と群れることよりも一人で「自分だけの世界」を楽しんでいた私が、選ぶはずの道と絶対に選ばないと決めている道。それだけは、この先誰にも譲ることはできないのであって、自分で自分を守るために必要なことでもあると思う。
その選択の連続で紡がれていく人生を幸せにできるのは、自分以外に誰もいないのだから。