「結婚は、私に残された最後の逃げ道」。
若かった母の気持ちを代弁するとこんな感じ。
母は祖父、つまり母の父から虐待されて育った。背中に傷跡と、外見では分からないが、鼻の骨が歪んでいる。酒に酔った祖父に繰り返し殴られてできた傷跡だ。

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祖父と、そんな祖父との離婚を選ばなかった祖母には事情があった。二人とも亡くなっているので、生前の本人の話や母の話しか手がかりはないが。

祖父は遊び人の父のもとで育った。当時は国民学校と呼ばれた小学校に通っていた頃は戦争のために学びの機会を奪われ、代用燃料の松やに採集に明け暮れた。欧米人のような容姿だったので、「鬼畜米英」といじめられた。
暗い幼少期を持つ祖父だが、一代で会社を興した。それでも酒に酔うたびに暴れた背景には、子どもの頃のトラウマがあった。

そんな祖父に振り回された祖母は、父を戦争で亡くし、母子世帯で貧しく育った。お弁当のおかずを裕福な友達の卵焼きと交換してもらったそうだ。幼かった私は分からないなりに、その交渉術に「ばあちゃんすげえ」と思っていた。
けれども貧乏がみじめだったのだろう。稼ぎまくる祖父からは離れず、祖父の見栄で「着飾った奥さん」を演じた。毛皮を纏い、金の腕時計をはめていた。

共に中卒で学歴コンプレックスがあった両親のもと、母は衣食住と教育にはお金をかけてもらった。十分な愛は注がれなかったが、勉強に励み、地方から東京の大学に進むことで暗い家庭から逃げることができた。

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東京の会社に就職が決まった母はやっと完全に家から逃げられると思っていた。ところが卒業間際に祖父が病で半身不随となった。祖父の会社は設備投資により負債を抱えていた。ワンマン経営のツケが回り、会社からは人が離れた。

まともに字を読めない祖母を手伝うため、母は就職を諦め実家に帰った。会社は売却先が決まり、お金だけが残った。
その頃に出会ったのが父である。根っから明るい父のことは以前のエッセイ(「ニコニコ顔にはニコニコ顔が集まる」。父の教えが招いた思わぬ苦労)で書いたが、この人となら楽しい家庭が築けると思った母は26歳で結婚した。

虐待は連鎖すると言うが、憧れの家庭を手に入れた母は私に身体的暴力を振るわなかった。でも、母と私の関係は振り返ると少しいびつだった。
ちょっとしたことで母の機嫌を損ねた。例えば、私が遊びに行く際に母が自分から買って出た送迎。正確な待ち合わせ時刻を決めていなかったのに、少しでも待たせると事情も聞かず怒られた。父の親戚の愚痴や政治への意見に同意を求められた。幼い頃、片付けができず持ち物を全部捨てられたこともある(これについては後年謝罪を受けた)。
その反面、
お出かけのたびにおもちゃや服を買い与えられ、喫茶店に連れられ、家の中では「あなたは賢くて美しい」と何度も抱きしめられた。

子どもの頃に満たされなかった母の心のすき間と傷。母の一連の行為は寂しさに由来していた。楽しいことが多かったけれど共依存と言える関係を築いた母と私は、互いに親・友達・恋人・子どもの役割を補完し合った。

「全部、相手に合わせれば怒られない」。私は周囲の顔色をうかがう人間になった。

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つい最近、母とのベッタリな関係が終わった。私のアパートに母が来たとき勝手に片付けをされ、仕事の書類を間違えて処分されたことがきっかけだった。母を突き放すようでつらかったけれど。

複雑な家庭環境と戦争で傷ついた祖父が母に暴力を振るい、それが共依存という形で私の人格形成に影響を与えた。母は暴力を振るわないように細心の注意を払ったが、祖父の前からの影響が私の中にも残っている。

私が子どもを授かったらどんな子育てになるのだろう。子どもとはいえ他者。1人の人間として尊重したいけれど……周囲の先輩は「完璧な子育てなんてないわよ」と言う。そうだ、母は母なりに子育てを頑張ったんだ。

関係のいびつさを母が自覚していたかは分からない。だから、直接言えないけれど伝えたいメッセージがある。

お母さんへ
必死に愛してくれてありがとう。でも、脈々と続く負の連鎖に我々は抗えなかった。だから32歳の私はまだ、子どもを授かる覚悟が固まってません。出産年齢の心配をかけてごめん。
もう母が求める私ではないけれど、欲しがっていたワンピースを贈ります。どうか自分を労わって、満たされた還暦を父と迎えてください。