「もしあの時転職していなかったら」と考えることが時々ある。といっても、行きつく先はいつも「もしあの家に住み続けていたら」という想像だ。
大学を卒業後、とりあえずみんな関東だ、ということで友達とシェアハウスに住み始めた。家具・家電がひととおり備わったきれいな戸建てで、優しい大家さん夫妻が「あなた達のような方が住んでくださって嬉しい」と歓迎してくれた。
メンバーのほとんどが寮住まいを経験していたこと、旅行に出かける仲だったこともあり、家事も日常の会話やおでかけも学生の延長のように続いていった。
決まった期限や正式な取り交わしのない、気楽で心地よい、今思えばあまりにも脆い生活だった。いつかは転職や介護や結婚で解散することになるかもしれない、それでなくても一人で暮らしたくなることや地元に戻りたくなる可能性だってある、とみんなどこかでは考えていたかもしれない。
でも、今すぐにそんなことを考える必要はないだろう、と(少なくともわたしは)思っていた。ところがその可能性を思ったよりずっと早く、現実にしたのは他ならぬわたしだった。
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新卒で入った会社での仕事に悩み、一年少しで退職した。次は決まっていなかったがやってみたい仕事はあり、「今までレールに乗ってきた人生だったし、ちょっと時間をかけて考えてみよう」という気持ちで、その時点ではシェアハウスを抜けることも考えていなかった。
が、予想外にも2ヶ月後には希望する職種で、そして東京からは通えない勤務先に内定を頂くこととなった。同居人は一緒に喜んでくれ、またわたしが家を出ていくことを寂しがってもくれた。
告白すると、その時のわたしは「新しい場所で心機一転がんばろう」という思いだった一方で、ほんとうに身勝手ではあるのだけど、「誰か引き止めて」と心のどこかで思っていたのだ。
「自分に合うかもしれない仕事に就けることになって嬉しい」けれど、「気の置けない大事な人たちとの生活を手放してまで行くべきなのか」という気持ちもあったわたし。心の中では「わたし達との生活よりも仕事を選んだんだ」と思っていたかもしれなくて、でも「やりたい仕事が見つかってよかったね」と言ってくれた同居人。
「仕事」と「生活」についての価値観を見極めるには、みんな早すぎる時期だった。
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もしあの時転職していなかったら。あの家に住み続けていたら。仕事は今ほど性に合わず、キャリアについては将来の展望もなかったかもしれない。でもみんなで日々の他愛ないことをダイニングで話して、たまにはぎこちない雰囲気にもなって、もしかすると騒ぎすぎて大家さんに叱られて、そして少し、これからの話もしていたかもしれない。
あれから「仕事」と「生活」について考え続けてきて、ふとそんな想像をすることがある。わたしが抜けてから半年後にシェアハウスは解散になって、それでもお互いの近況やあの頃と変わらない話をできているのがありがたいと思う。
ニーチェによると、世界のものごとは、理想や終着点に向かって直線的に移ろっているのではなく永遠に繰り返されるのであって、その繰り返される運命を、苦しみも含めて愛するべきなのだそうだ。前世も彼岸も並行世界もないこの一つの世界を、無限に繰り返される一つの選択肢を愛するということ。そんな巨大な愛を持ち合わせることは、生涯できないだろうと思う。
けれど「もしも」の世界を想像したあとはなぜか、「でも、もう一度選択をするとしても同じ方を選ぶだろうな」と必ず思う。きっとそうすることでしか、今の自分がいるこの世界を肯定できないのだ。