「本当にかわいいんです、ほんとーにかわいいんです」
同じピアノ教室に通う女の子の母親の一言が、無意識に私を襲う。

世間では、心的に苦痛を与える体験を思い出すことをフラッシュバックと呼んでいるが、その体験が愛娘を想う母親の美しい言葉である私は、やはり普通ではないのだろう。

それは時と場を選ばず、ある時はふとした瞬間に、そしてある時は友達と談笑をする楽しい合間にやってくる。10年以上も前の出来事を忘れさせないその残虐性は、いつまでも鎖に縛り付けられているようで苦しい。今後のライフステージで幸せをつかむことがあっても、この出来事が頭の片隅から完全に消え去ることはないだろう。

所属していたピアノ教室のクリスマス会でのことであった。17年ほど生きてきた軌跡を否定されたような感覚に陥った。

それまで周囲との間に確かに存在していた差異が、一気に露呈した瞬間だった。

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私がその差異を強く認知し始めたのは、高校生の時だった。4年制大学への進学が前提となる学校で、みな自分の希望する進路を選び、両親はその希望を応援すべく、彼女らの味方に立った。時には学習塾探しに奔走し、時には娘に見合った大学をともに検討し、時には彼女らが不自由なく遊べるようお小遣いを渡し、時間が遅くなれば迎えに行った。娘が体調を崩せば、文句ひとつ言わずに学校へと向かった。

一方の私はというと、医療系大学への進学を強制され、拒んだ際には「怠け者は資格取得のための勉強がしたくないから」と不真面目な性格からくる発言だと言い張り、終いには「文科系大学の就職は美人から選ばれるから、ブスなお前には無理」と、人権を無視した発言すら容赦なく繰り返した。

そして自分の希望に沿う形で無事大学受験が終了し、家にいる時間が増えると「こっちはあんたが子どもでどんだけ恥ずかしい思いをしていると思っているのー」と、思い通りにならない鬱憤をこれでもかというほどに晴らしてきた。

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悪行は進路に関することに留まらず、1年に何度か体調不良を訴えると「サボり癖がある」と言い、19時以降に外出したことは殆どなかったというのに、ショッピングモールの無料送迎バスが遅れて帰宅が遅くなった際には「言い訳だ」と聞き入れる姿勢すら持たなかった。

一方何人かのクラスメイトはというと、家族でお祝いをするから卒業式後に行われるクラスの食事会に参加できないと言っていた。誕生を喜び、自身の存在を肯定する家族がいる友人を前に気丈にふるまうことが、私のできる最大限の頑張りであった。卒業式の一か月後、てんかん発作を起こした。

高校を卒業すると同時に、実家には多数の振袖の案内が届いた。届く広告は実家の近くに店舗を構え、私よりも先に成人した地元の先輩たちが、そのお母様とともにチラシに写ることもよくあった。近所のお姉さんがお母様と一緒に広告に写ったものには、「私の娘として生まれてきてくれてありがとう」と書かれていた。

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私は周囲の人と比較して何が劣っているのだろう、何が悪いのだろう。100歩譲って見た目が気に入らないのなら、それは両親からの遺伝によるものだ。特別何か悪事を働いたわけでもないというのに、愛されない理由がたまらなく悔しかった。

両親から自身が大切な存在であることを教わらなかった私は、自分のことも大切にすることが出来なかった。まだ学生だった頃交際相手のいる男友達と遊んでいて、酔った勢いで関係を持ちたいと言われ、相場の10倍ほどの金額を提示した。

結局白紙になったけど、これまで教わることのなかった自身の価値が、10倍ほどの金銭によって認められるなら、この世に存在する価値があるのかもしれない、そう思った瞬間だった。このことを友人に話すと、私の言動はおかしいとのことだった。

その言葉は相当こたえた。世の中には、両親から自身が大切な存在であることを教わらずに生きてきた人がいるということを分かってほしかった。けれども他人に分かるわけない。そんな絶望が、これまで感じてきた以上の孤独感を強く意識させた。

でも、よく考えてみるとこれは私と母親の関係で、他人には何の罪もない。だから、たとえそれが虚偽の発言であったとしても、自身の存在が大切であることを伝えて欲しかった。愛していると言ってほしかった。
その言葉が偽りであったとしても、私は受け入れることが出来る。だって、たとえ嘘でも、嘘をつこうと努力してくれたんだから、言われないよりはずっとマシである。