1970年、私がこの世に誕生した時、母は都内の私立女子中学・高校で数学を教えていた。当時、育児休暇は存在せず、母は夏休みを利用してわずか1ヵ月の休みを取った後、職場に復帰した。そのため、私は生後1ヵ月から他人に預けられる生活が始まった。

◎          ◎ 

そのせいか、私は異常なほどの人見知りになり、母がやっとの思いで見つけた保育ママに預けられた際には、あまりに泣き止まないため1ヵ月で預けるのを断念したと聞いている。私自身は専業主婦をしながら子育てをしていたため、子供が生後1ヵ月で職場復帰することや、教師として働きながら子育てをするのどれほど大変だったかというの想像するのは難しい

そして、私が3歳の時には弟が生まれ、家族や親戚の注目は突然彼に移った。それまで愛情を一身に受けていた私にとって、その変化は耐え難く、気が付いたときには弟の顔を爪でひっかいて傷だらけにしてしまったことがあった。

次の日、保育園で弟の担任の先生が「どうしたのですか?」と訝しそうに聞いてきたのを未だに覚えている。私は知らんふりを決め込み、母は同じ保育園に通う私のことを気遣い、本当のことを言うまいか迷った挙句、「ちょっと転んで……」などと誤魔化したらしいが、おそらく先生方は気付いていただろう。母はその出来事を思い出す度に「神経質で育てづらい子だった」と嫌味たっぷりに言うのだった。

◎          ◎ 

両親とも教師だったため、朝は5時起きで、保育園では最後のお迎えを待つ日々。母と公園で遊んだ記憶はほとんどない。小学校に入学すると、放課後は学童保育、週に2回のスイミング、週に1回のピアノレッスンと、忙しい日々が続いた。学童保育から習い事に通うのは当時珍しいことで、学童の先生が私のことを「可哀想」と心配する言葉にとても腹が立ったということも母から聞いた。

そんな日々の中、学校と学童が一緒だった同級生女子からは髪の毛をショートにしたことで口をきいてもらえなくなり、その時にも母が十分な対応をしてくれなかったことが悲しかった。

結局、学童は小学2年でやめたが、鍵のついた紐を首からぶら下げ、登下校はいつも1人で家の中で本を読むか人形遊びをすることの多い根暗な女の子だった。周りは専業主婦の家庭が多かったために、常に母親が家にいるという状況を羨ましく思い、何度となく母に「仕事をやめてほしい」と懇願し、困らせたこともあった。

その後も友達関係のトラブルになる度に「あんたが悪い」と怒られるばかりで、学校での出来事を話せない時期が続いた。その経験がいけなかったからなのか、初対面の人と打ち解けるのに時間がかかる人見知りが酷い状態は、30代ぐらいまで続いていたように思う。

◎          ◎ 

そんな私も40歳で結婚し、子育てが一段落した矢先の昨年6月、弟が50歳で突然亡くなった。弟の葬儀は北海道で行われ、両親と共に参列した。私と大きく違って勉強も運動もよくできた弟の死は家族に深い悲しみをもたらし、私もまた、両親の悲しみを目の当たりにすることが辛かった。

昨年末、私たち家族が久しぶりに両親に会った時、母は以前とは違うように感じた。頼れるのは私だけになったからなのかもしれない。そして今年の春休み、小6になったばかりの娘が初めて1人で両親の家に泊まりに行った。

孫の訪問に両親は喜び、娘の社交性としっかりとした態度に「安心した。心配ない」と電話で嬉しそうに伝えてくれた。母と私の間にはまだまだわだかまりがあるものの、孫を通じて新たな関係を築けるかもしれない。娘の存在が、母と私の関係を癒すかもしれないと思っている。