私は祝い事が好きだ。誕生日、記念日、何でもない日。とにかく理由をつけてお祝いをすることが好きで、贈り物やサプライズを考える時間は一等有意義な時間だと思っている。

もちろん、相手に合わせてサプライズをしたほうがいいのか悪いのか、そういうことも考えることが好きだ。たぶん私は、お祝いをするために相手のことを一生懸命考える時間そのものが好きなのだと思う。

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けれど、そんな私でもあまり得意ではない祝いの日がある。それは、「結婚式」世界で一番愛に溢れたとても素敵な場所であり空間、時間だと私は思っている。結婚することは素直にお祝いできるのだけれど、どうも披露宴に呼ばれるのはあまり得意ではないらしい。

理由を考えると、漠然としたものが湧いて出てくる。私があの場で「浮いている」と感じるからだろう。世界で一番幸せなあの場所に私がいることが、ふわふわ浮いていて、どこか場違いなような気がするのかもしれない。

例えるならば、新入社員として入ってきた初日、教育担当の先輩が急用の電話に出ていて手持ち無沙汰になっている状態のような。誰に何をけばわからない、自分が今何をすればいいのかわからない。だから、なんとなく綺麗なはずのデスクを掃除したり、なんとなしにパソコンをいじったりする、あの感じ。うん、少し似ているかもしれない。

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結婚そのものに嫌悪感がない分、結婚祝いはしっかりできるし、なんならそれは楽しみである。二人の生活を想像して何を送ればいいのか必死で考えている時間は、他の祝いの準備と同様にワクワクするし大好きだ。でもどうしても、披露宴だけは苦手だった。

祝い事が好きなくせに祝い場が苦手なのは意外なように思われるかもしれないが、そうでもない。たぶん、披露宴は新郎新婦側からもてなしをされながら二人の門出を祝う場面だから苦手なのだ。

相手が考えてくれた料理、曲、装飾、サプライズ。そういうのを、周りの人たちはその場に合わせて楽しんで盛り上がって過ごしている。最後に手土産まで持たされた日にはもう私はいたたまれない気持ちになるが、これも甘んじて受け取れる人は大勢いる。

要は、私はお祝いすることが好きだが、もてなされるのが苦手なのだろう。そして、そのもてなされることを当然のように受け取ることができないのだと思う。だから、受け取れる人のことが理解できなくて、漠然と「浮いている」と感じているのかもしれない。

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祝いにも様々な形がある。もちろん、私の誕生日に誰かに祝ってもらうこともある。そのときは、お礼と共に日頃の感謝として逆に贈り物ができるから多少受け止めきれるのかもしれない。でも、披露宴は違う。祝っているようでもてなしを受けているあの環境が苦手なのだろう。

私は、正直今後結婚をする気持ちはない。だから披露宴をすることもないだろう。だから、純粋にうかがいたいのだが、披露宴とはどのような気持ちで赴けばいいのだろう。もちろん二人の幸せを願いながらいくのだが、それなのになぜかもてなされているあの環境に慣れないのは少数派なのだろうか。単純に気になって仕方がない。

同じような人がいればちょっと嬉しいとか思ってしまうのは、いけないことだろうか。