「母親」ってなんでこんなにも不思議な存在なんだろう。どれだけ憎んでも、憎みきれない。どうしようもできない壁が立ちはだかったとき、助言を求めるのはやっぱり母親である。

だが、私には産まれてから20数年間、母のある行動によって苦しまされ、その苦しさから人生を形成されてしまった。それは、母の「無関心」という態度である。よく友達との会話で「母とランチに行ったんだけどさ」などと聞かれるが、私はいつも驚いていた。そんなこと一度もしたことがないし、母と友達のように喋った記憶がない。

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私は父、母、姉、弟の5人家族。私は真ん中っ子である。父は喋ることが好きで人脈も広く、社交的。一方、母はその真逆。人の輪を広げようとせず、母自身から話題を振ってくるといったこともほとんどなかった。

真ん中っ子という要素も大部分を占めていると思うが、私は母の関心を常に引きたかった。しかし、母が興味の矛先を向けるのは、いつも姉と弟。姉は初めての経験をどんどん積んでいく。弟は異性であるということもあり、何もかもが新鮮だったのだろう。姉や弟の話には真剣に耳を傾けていたが、私との会話にはそのような様子は感じられなかった。

やがて、姉と弟の激しい反抗期が始まり、よく両親と喧嘩していた。そのたび、私は両親と兄弟の間を取り持っていた。母はいつもどうしていいかわからず、困り果てていた。さらに、私が中学校3年生の時に母は乳がんになった。一番反抗したい時期に、母はいない。母のお見舞いに毎日病院へ通った。

そんな状況だったため、私には反抗期がなかった。しかしそれは、母が病気を患ったからではない。反抗したところで母は返す言葉が見つからず、固まってしまっている光景が目に見えていたからだ。

だが今になって思うと、母に思いきり反抗したかった。母ともっと深いところでコミュニケーションがとりたかった。それは怒りの言葉でも、悲しみの言葉でもなんでもよく、母の言葉を引き出したかった。何も返ってこないことが、一番辛かった。

しかし、そんなことが分かりきってしまっていたから、私は大学進学と共に1人暮らしを始め、家を出た。私にできた静かな反抗だった。

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母に話を聞いてもらった経験が無い分、私は人の話を真剣に聞こうと心がけるようになった。相談業務の仕事にも就いた。しかし年齢を重ねていく度、私の思考がどんどん母に侵略されるような実感を覚えるようになる。

相手の話を聞いている時に、何かコメントをしようと思っても相手のことを考えすぎるあまり、すぐに言葉が出てこない。すると、稀に「話、興味ない?」と言われるようになった。私は真剣に聞いているつもりなのに、相手に伝わらない。なんだか、この光景を知っている。

母に似てきている自分に嫌気が刺すと共に、母の気持ちが少し分かるような気がするのだった。母はもしかしたら相手に興味がなかった訳ではなく、相手を傷つけないように言葉を一生懸命探していただけだったのかもしれない、と。

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夫と知り合い、家族だけの結婚式を開くことになった。そして、式当日に私の今までの思いが覆されることになる。式場のサービスの一つで、母へ新婦へのサプライズのメッセージブックの作成を依頼していたそう。控え室でメイクを施してもらっている時に、スタッフがそばにやってきて私に一言。

「こんなに分厚いメッセージブックを作ってくれた人は、今までいませんでしたよ」と。

そして、図鑑ほど分厚いメッセージブックが手渡された。開いてみると、私のエコー写真、幼かった頃のエピソードやたくさんの写真達、今まで見聞きしたことのない私の今までが綴られていた。

そして最後のページには母から長文のメッセージ。その中の最後の一文に私は激しく涙腺を刺激された。「あなたが生まれたときは、本当に嬉しかった。いつも甘えさせてあげられなくてごめんね」

「無関心なんかじゃなかったんだ」

母は私の気持ちをわかってくれていた。子供の立場からは見えにくい、母の愛情がそこにはあったのだ。

そういえば、姉からも一度言われたことがあるんだっけ。

「お母さんって、私や弟を呼ぶ時は呼び捨てなのに、あなたを呼ぶときだけ『〜ちゃん』って呼ぶでしょう?お母さんは、あなたのことが可愛くて仕方ないんだよ」

母は、もしかしたら誰よりも私のことを愛してくれていたのかもしれない。

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もし私が母親になったら2人だけでお出かけやランチもしたいし、側に寄り添えるような存在でありたいと思う。でも、私にもできないことがたくさんある。そうやって私の母のように「完璧でない母親」でも「愛される母親」になれるように、母から教わったことを次に繋げていきたい。