小学生の頃、友達同士で誘い合って母の日の贈り物を買いに出かけたことがあった。昭和の商店街で、キナリ屋という屋号の雑貨屋には、化粧品やバッグ、ちょっとしたお出かけの小物が並んでいた。あれ綺麗、うちのお母さん好きそう……小遣いをポケットに思案した。

当時流行っていたのか、スカーフを選び、みんなで同じ物にした。本当かどうかイギリス製と記されていて私達はちょっと誇らしく笑い合った。

プレゼントを渡した当日、包みを解いた母は少し驚いて「ありがとう」と言ってくれた。しかし翌日、商店街へ出かけて行き、スカーフを返品した。理由は柄が気に入らない。代わりの物を求めるでもなく、つまり私の贈り物はなかったことになった。

友達には言えなかった。「うちの母さんも喜んでた」相槌を打って、やり過ごした。

母は一貫した人だった。私が成長してパートで働くようになってからも職場の人間関係が合わないとすぐに辞めた。家族の前でも平気で親戚の悪口を言い、PTAはもちろん町内会も無視した。いつだって自分の気持ちが最優先だった。

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ある時、私が友達を家に招いて騒いでいたら、いきなり部屋のドアが開けられ「うるさくて昼寝が出来ない。あんたの声が一番大きい」と言って、一番仲の良かったサヨちゃんに詰めよった。サヨちゃんは二度と我が家に来ることはなく、私も放課後に誘われることはなくなった。

私は結婚した。母は私が選んだ結婚相手について不満を口にし、子育てにも批判の口出しをした。結局、夫婦関係は不仲となり、私は離婚してシングルマザーとなった。母は私の尽くし方が足りないと詰めよった。

生活のために私が仕事をはじめると、そんな仕事は柄が悪い、あんたに似合わないと認めなかった。
そんな母も高齢になり身体の不調で病院の通いを理由に呼びつけられた。薬が足りないと管理を任され、急変した痛みにすぐに病院へ連れて行けと昼夜なく振り回された。職場では、さり気なくパートに移るよう勧められ転職した。

年の瀬の寒い朝、母は倒れた。すぐに救急車を呼んだが車中で息を引き取った。脳卒中だった。

慌ただしい葬儀の中、私は泣くことはなかった。母の死は、まるで家出のようだと思った。

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今でも時々思う。あの人は本当に私の母親だったのだろうか。
母は人生の中で、家族や友人を大切に思い、楽しかったことや幸せを感じたことがあったのだろうか。

母さん、私たちはなぜ母娘としてこの世に縁をもって生まれてきたのでしょうか。お互いを思いやり心配したり、つかの間でもそんな気持ちを味わうことができなかったのか。その代わりとして何かを得たのだろうか。
母さん、空の上から私が見えますか?今の私はどんなふうに映りますか?
どんよりとした空を見上げると不意に少しだけ泣けてきた。母の死後、はじめての涙であった。
母さん、私どうすれば良かったの?
心から母に話しかけ、迷子のように心細く泣いていた。