母と私は、周りからはよく仲が良いねと言われる。確かに毎日のようにLINEをしたり、2人で旅行に行ったり、飲みに行ったり、仲が良いのかも知れない。
でも、私は母にはどうしても弱みを見せることや悩みを相談することはできない。
仲良いと言ってもらうたび、深い話が出来ない関係であることに悩む。
私にとっては、友人たちがお母さんが1番の相談相手と言っていることが羨ましい。
幼い頃から悩んでいる母を見て来て心配かけないように振る舞っていたせいか、思春期に一緒に暮らしていなかったせいか、理由は分からないけれど、どうしても、自分の弱さは見せられない。
見せたくない、という方が正しいかも知れない。
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中3の夏、母が家を出た。
幼い頃から父と母は喧嘩を繰り返し、決して仲の良い家族とは言えなかった。それでも家族で毎週末のようにお出掛けや外食をしたり、毎年旅行もしていた。
「離婚する」という母の言葉を何度も何度も聞いたけれど、必ず仲直りをし家族で仲良く食卓を囲む日常が戻ってくる。離婚というワードは母の口癖、くらいに思っていた。
だけど、最後の喧嘩は違った。喧嘩の原因は分からないが、何となく、もう両親の関係は終わりなんだろうなと思った。
そして母は、家を出る決断をした。母と話をした結果、経済的な理由から、私と当時小学生の妹は父の元で暮らすことになった。妹はその話を聞いた夜、静かに泣いていた。
思春期の私には、娘2人を置いて家を出る選択をした母のことが信じられなかったし、大好きで可愛いまだ幼い妹に寂しい思いをさせる母のことを許し難い気持ちもあったけれど、母が幸せに生きられるのならそれで良いと自分に言い聞かせた。
そして、妹のことは私が全力で守ろうと決意した。
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それでもやっぱり、心のどこかでは、母が戻って来てくれること、また家族4人で暮らせることを信じていた。父の元で暮らす決断をした本当の理由も、家族4人で暮らせる日が来ると信じていたから。
母と暮らす選択をすると、家族4人での生活がもう一生出来ないと思ったから。母に、帰る場所があること、みんなが待っていることを伝えたかった。何があっても、私たち3人がいる場所に母は戻って来てくれると信じていたし、毎日毎日祈っていた。
でも、待っても待ってもそんな日は来ないし、それどころか、母は1人の女性としての生活を楽しむようになっていた。
母の幸せは嬉しいはずなのに、どうしても、どうしても、喜ぶことはできなかった。大好きだった母がどんどん遠くに行ってしまう気がして悲しかった。幼い妹に寂しくて辛い思いをさせているのに、自分だけ楽しく過ごすなんて酷すぎる、という怒りの感情もあった。
そして私は徐々に母に強くあたるようになり、完全に心を閉ざすようになってしまった。
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大学進学後地元を離れたこともあり、気付けば一切口を利かなくなってしまっていた。喋らなくなって1年程経ち、何となく母との関係を修復したい気持ちも出てきていた頃、たまたま2人で料理教室に通うことになった。
その日作った物、次に作りたい物、習ったことなど、何気ない会話を通し、いつの間にか会話が増え、わだかまりなどなくなっていた。深い溝があると思っていたけれど、ちょっとした出来事で、親子の関係を取り戻す事が出来た。
そして私は社会人になった。
まだまだ未熟な社会人ながらも、日々、働くことの大変さを感じ、1人でしっかりと生きてきた母に尊敬の気持ちが生まれた。悩み相談となると気恥ずかしくて出来ないけれど、お酒を飲みながら近況を話したり、愚痴を言い合ったり。そんな時間がとても貴重で、理不尽な社会でも力強く生きていく為の活力になっていることは間違いない。
何でも言える存在、という訳ではないけれど、それでも楽しい時間を共有し、私たち親子にとって心地よいあり方であれば、それで良いのかな、と今は思う。