母は仕事をしながら子供4人を育てた。

「自分はいいから子供たちで食べなさい」と子供たちに分け与える人だった。
昭和の昔“男は働いて、女は家事と子育て” そんなものが男の甲斐性、嫁の美徳とされていた。仕事+家庭+4人の子育て、という母の3刀流は、並大抵の大変さではなかっただろうと思う。

決して子供たちの前で弱音をはかず、気丈に、苦労をしている母の後ろ姿を見て育った。

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父が亡くなって、母との二人暮らしも10年が過ぎた。
癌の病床で、骨と皮になった母は「死ぬのは3月中がいい」と弱弱しく言った。
「なんで?」と聞くと、「チビたちが春休みのうちがいいから」と。
自分のお葬式に、遠方から学校を休んで来なければいけなくなる孫たちのことを考えていたのだ。

そのとおりになった。3月の末、母は、ただ1点を見つめ、静かに息を引き取った。
乱れることもなく綺麗だった。
「人は死ぬ時を自分で選ぶ」と聞いたことがあるが、本当にそうかもしれない。

私は、人は死ぬ間際に何を考えて亡くなっていくのだろうか?と考えたことがあるが、間違いなく、母は、死ぬ間際でさえ、家族を一番に考える人だったのだ。

愛情たっぷりの家庭だったんだということを思い知った。
子供の頃は、その愛情の深さを、鬱陶しく、面倒臭く思った。
思春期を過ぎるころには、母は、よく子供たちに「自分一人で大きくなったと思って!」と小言を言った。

似たもの同士ほどよく喧嘩をするというが、そんな母に反発しては喧嘩ばかりしていた。
年老いた母を相手に、取っ組み合いの喧嘩もしたこともある。
翌日になってケロっとして、ぎこちなく、また普段に戻るから親子とは不思議なもんだ。

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今になってようやく理解できることがある。
照れ屋の母は、感情や愛情を上手く伝えられないがために、子供が親離れしていく淋しさや、子供への心配という“愛情”の裏返しを、怒りでぶつけていたのだと。

そして、子供だった私自身も、照れ屋で上手く伝えられず、母を思うがゆえの怒りという愛情があったのだと。
相思相愛だったのだ。“喧嘩するほど仲がいい”ということかもしれない。

母のお葬式の夜、ほんの一瞬、私の部屋で停電が起こった。
その数日後、一人になった家に、姪っ子が泊まりに来た時も、私の部屋が一瞬停電になった。

台風や地震の時でさえも、停電になったことなどない家なのに。
霊界的な話はあまり信じてこなかったが、母がいるのだろうか?と思う現象だった。
それ以降、もちろん停電はない。

こんな現象もあったことで、“母がどこからか見ているのではないか?”と思えるようになった。

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私が海外生活で思いもよらないトラブルにあった時も、母は、遠い日本から、私に何かあったのでは?と虫の知らせがしたそうだ。
母と娘は、他の誰にも分からない、見えない奥の深いところで、強く繋がっている、そんなものかもしれない。

いなくなってしまうと、昔の憎まれ口もすっかり忘れてしまい、ただ、ただ、産んでくれたことの感謝、育ててくれたことの感謝、愛情いっぱいだったことへの感謝、そんな感謝しか、最後には残らないもんだ。

そして、1人ガランとなった家で、子供のように大泣きして「お母さ~ん」と叫び、「ありがとう」と叫ぶことができるようになった。
母はよく「親にとっては、いつまでたっても子供は子供!」と言っていたが、
本当に今でも“お母さん”であり、“子供”なんだな~と思う。

これまで「尊敬する人は?」と聞かれて、「お母さん」と答えることは決してなかった。
でも、今は、自分があるのは、この母のお陰であるのだと心の奥底から思えるようになった。

間違いなく……「母は凄い!」と胸を張って言える。
もう大の大人だけど、こうやって人はまた成長する。

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今年3月末、母の一周忌を迎えた。
昨年の桜は、母が亡くなったばかりで、眩しい春の日差しの中、チラチラ舞う花びらが、私には何かが違って見えた。
まるで空から母が息を吹いて散らしているかのような、そんな感じだった。

母のいない家が寂しくて、とにかく忙しくした1年が過ぎた。
あっという間に過ぎ、今年の満開の桜を眺める。
若かりし頃の母の写真を整理しながら、自分が当時の母の年を越えてきたことを実感し、目がくぼんだ顔が似てきたなと、鏡を見て実感する。
今年も満開の桜が風に舞い散っていった。 
時間はたっぷりあるようで、あっという間なんだ……。

母を見て育ち、反面教師だった母。
1年経って、ようやく母の事を書けるようになった。

人生は一度きり。
苦労した母の分まで、楽しみ、笑い、幸せに生きていこうと思う。
しっかり根をはり、来年も美しく咲き誇れるように。