私が幼い頃、よく父がやっていた食パンの食べ方があった。
食パンをこんがりとよく焼いて、バターを一口ずつ付けて食べる食べ方。
熱々の食パンの上で溶け出すバター、香ばしくてサクサクな食感。
「まるでキラキラと輝く宝石箱だ」と例えたくなるような絶妙な味わい。
傍から見たらとても高カロリーで体に悪そうだが、幼い頃の私にはそんなことは分からない。よく母が父に向って「大きくなったら真似するからやめてよ」と冗談交じりに言って笑っていた。
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お父さんっ子だった私は、大好きな父の隣に座ってその姿をじっと見つめていた。
じっと見つめる私に父は一口、また一口とくれていた。
この時間が唯一の、父と娘の親子の時間でもあった。
父は当時タクシー運転手をしていて、早朝に家を出る日もあれば早朝に帰ってくることもあった。
体の弱かった私は入退院を繰り返し、保育園になかなか通えていなかった。そのせいで母も仕事に出れず、父の仕事量は増えるばかり。幼いながら自分のせいだと感じていたことを記憶している。
父は昔ながらの人で、頑固で、なんだか心がいつも寂しそうな苦労人だった。
父と母はよくケンカをして言い合いは絶えず、家庭には常に冷たい空気が広がっていた。
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幼い私にとって父は、優しくて、数字に強くて、料理上手で、センスがあるかっこいい父に見えていた(私が知らない本当の父は、あとから聞いたが暴力的で女たらしだったらしい。何とも言えないダメンズっぷりだ)。
両親とも変わらず、私にたくさんの愛情を注いでくれた。
そんな両親が、私は大好きでずっとみんなで楽しく過ごしたい気持ちでいっぱいだった。だから二人から醸し出される不穏な空気を、私はテレビで見たお笑い芸人の真似をしたりなんかして、どうにか明るい空気に換えようと毎日試みていた。
しかし、ある朝母から「お父さんと離婚することになったよ」と寝起きの私に一言。多忙な父と、育児で手一杯な母は私が小学校入学と同時に離婚した。
今思い返せば「離婚」の意味を知っていたのか、なんとなく感じ取っていたのか、母からの一言を耳にしてからずっと泣いていたのを今でも鮮明に覚えている。
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離婚当時、父は病気になって入院した。
小学校低学年だった私は学校帰りに1人で電車に乗って病院に毎日通っていたが、いつしか父と母の狭間に立っているのが精神的に窮屈に感じていたのかもしれない。
よく一人で泣いていた。
その涙は上手くは枯れず、母に見つかってしまった。何で泣いているのかを詰められ口にした言葉は「もう(父と)会いたくない」だった。
しかしその言葉が父にとって凶器になることがなんとなくわかっていたため、自分の口からはなかなか言い出せなかった。
母の口から父へと「(娘が)会いたくないって言ってるから」という本人にとっては厳しい言葉が届けられ、電話越しに泣いている父の声が漏れ聞こえていた。
私は、父と母の両方を傷つけてしまったのだった。
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年が過ぎ、約10年の闘病の末に父は亡くなった。
最後のお別れにも葬儀にも、私は真剣に向き合わず逃げていた。
全てが終わり、母から一言「すっきりしたね、苦労させてしまってごめんね」と言われてなんだか苦労を共にしてきた母との絆を感じた暑い夏の日だった。
それからというもの反抗期や思春期を歩み終えた私は、母と過ごす時間を増やし続けている。
「いつまでもあると思うな親と金」と教えられてきた私。「親孝行ができなかった」という両親のあの何とも言えない顔を覚えている私は、できるだけ後悔が残らないように努めたい。家族にひびが入った理由の1つは私が原因だと感じている。せめてもの罪滅ぼしだとも思っている。
そんな大きくなって大人になっていく私を見て、母は度々驚いた顔をする。
仕草や癖やこだわりまで、どうやら父とそっくりらしい。
食パンに一口ずつバターを塗って食べていると、母は私に向って「腐れ縁だわ」と鼻で笑っていた。