私は嘘をつくことが得意ではなかった。
学生の頃の私は今以上に顔に出たし、問い詰められるとしどろもどろになる。嘘をつくことができない、得意じゃない。おべっかだってなんだって、思っていないことを言うことが得意ではなかった。嘘をついたらバレてしまう私に、嘘をつくメリットなんてなかった。
けど、そんな私がつき続け、数年にわたって自分自身に言い聞かせてきた嘘が一つある。
それは、「生きたくない」ということ。
当時は本当に希死念慮に支配されているような気がして、ふっと夜になるとどうしようもなく落ちていった。
落ちる、落ちる。スプリングに沈む身体よりも深く、私の心が落ちていく。
ブルーライトを眼鏡越しに浴びながら、涙が伝う。心臓が鉛のように重くなった気がして、気が付くと私の世界に対しての熱量が消える。ひどいとそれが朝までも続いて、頭が痛くて布団から出られなくなってしまう。
その気持ちを「生きたくない」と表現していた。
何か劇的なことがあったわけでもない。きっと家庭環境にも恵まれていて、友人だって大好き。勉強だってそこそこ頑張れば結果になるし、部活だって得意だったはず。
どうしてこんなに悲しくなるのか。涙が出ることがあるのか。
◎ ◎
誰にこの気持ちを伝えたらよいのかと困って、私は家族に言ったのだった。
悲しむ家族の顔を見て、「私はなんて親不孝者なの」と思うのに、繰り返してしまう。
そんな自分に自己嫌悪して、さらに落ち込む。
なんでこんなことを言ってしまうのだろう、思ってしまうのだろうって。
そうやって出口のない日々を過ごしていたら、突然出口が現れた。
大学入学を機に、私は地元を離れ遠く地方に移住。
自分が一人だけで生きられるのか、あんなにも「生きたくない」と言う私が心配をしていておかしかった。
大学という環境は私に合っていた。
付き合いたいと思った友人と話し、環境もある程度自分の思い通りになる。私の世界は大学の外のアルバイト先にも、知人の多い他県にもあった。関わる人が増え、人嫌い(と思い込んでいた)の私が休日を割いて人に会いに行った。
変わる環境に、目まぐるしい日々の中で私は気が付いたら「生きたくない」と言わないようになっていた。
居場所がどこにだってあって、どこかから逃げても私の居場所が用意されていた。
用意された居場所に見合う自分になるために努力することも増えた。
◎ ◎
今になってかつての「生きたくない」が言葉通りではなかったと思うようになった。
当時の私は語彙がなくて、そして女子中学生という年代の私が口にしやすい言葉がそれだっただけだ。インターネットにふれ、SNSを始め、広がったように感じられた世界に出会った当時の私。
本当の私は「逃げたい」、そう言いたかった。
中学校から、受験を控えてギスギスとしたクラスから、部活から。
SNSでだって、LINEでだってつながって、家にいてもそうした支配を受け続ける状態から。
破裂しそうなストレスに「わーっ!」とあふれる感情を、その熱量を伝えられるそのときの言葉が「生きたくない」だった。
痛いことは好きじゃないし、きっと最期は痛い。最期になるまで確かめることはできないけれど、できるなら先延ばしにしたいと思っているし。
なんとなく、当時の学校には逃げ出すことが許されない雰囲気があった。クラスに他の子たちはちゃんと来てるのに、優等生の私が逃げるなんて選択肢を取っていいわけないって思っていた。もっと語彙を、表現を、そして勇気を持てたなら、そしたら両親を悲しませることなく本当の気持ちを伝えられたのではないかと後悔している。
いま逃げたい君へ。
語彙を与えることはできないかもしれないけれど、誰かの逃げるための勇気になれたらいいなと思っています。