今年63歳になる父親を対外的に説明するとき、いつも私は言葉に窮する。
厳格で真面目、頑固と言えばその通りだし、お茶目で柔軟、陽気と言えばそれもその通りだからである。簡単に言ってしまえば、厳格とお茶目を高速で反復横跳びしているような人なのだ。
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反復横跳びのエピソードは事欠かない。
小さなころから、夕食時に見られるテレビと言えばNHKだけ。ゲームもYouTubeも許されていなかったし、携帯電話も私たちの世代では珍しく高校生になってから。大学受験で失敗して、浪人するかどうかを決める家族会議で私が少しでも学歴至上主義的な片鱗を見せると、「そんな嫌な人間になるくらいなら、大学など行かず一度社会に出るべき。余りにも社会を知らなすぎる」と一喝された。普段は大学教員として哲学や法学を教えていて教員然としているため、父と会った私の友人たちは「まよのお父さんって厳しくて怖いよね」といつも噂する。これが父の厳格のエピソードの一部である。
しかし、父は全く違う一面も持つ。40歳を過ぎてから会社を辞め、大学院博士課程に入りなおした父は、当時はまだ珍しい学生と兼業主夫を始めた。家事炊事育児を引き受けた父は、「男は外で稼ぎ、女は家庭を守る」という未だに私たちの意識の奥底にある常識から、驚くほど自由で柔軟であった。毎日ご飯を作り、洗濯物があると自作の「パンツの歌」を口ずさみながらノリノリで畳む(「わたしのパンツは~、あなたのパンツで~、あなたのパンツは~、わたしのパンツよ~」という意味の分からない歌である)。掃除と茶碗洗いは少し苦手なようであったが、そんな父の自由な姿に私たち姉弟はどれだけ影響を受けただろうか。
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お茶目さでいうと、最近ではこのようなことがあった。
現在私は体調を崩し入院している。母は、下着やTシャツ、洗剤など実用的なものを差し入れしてくれた。それに対して、父が「まよ、お見舞だよ」と持ってきてくれたのは、なんと実寸大のフグのぬいぐるみであった。しかもデフォルメされたキャラクター然としているような可愛いやつではない。あくまでも超リアルで、あまりのリアルさに少し不気味さを覚えるようなものなのだ。
「地元のおもちゃ屋さんに行ってね、娘が入院しているからぬいぐるみが欲しいって言ったら、これを薦められたんだ」と父は語る。なぜ30歳になった娘の見舞いの品になぜぬいぐるみで、そしてなぜフグなのか。頭の中に同時にいくつもの疑問が浮かんだが、笑顔で押し殺して「ありがとう」と父に伝えた。
しかし意外や意外、フグのぬいぐるみは、お医者さんや看護師さんから大好評を得る。私の病室を訪れるお医者さんや看護師さんから必ず「これ何????」「お父さん面白過ぎる」と反応され、大人気となるのだ。父に好評を伝えると、「そうだろうそうだろう」と大満足。さすが看護師で助産師である母と35年連れ添っただけあり、医療従事者のウケの取り方をばっちりと心得ているのである。フグと父、恐るべし。
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父の娘に生まれて30年が過ぎたが、父のことを考える度に、人間は多面的で重層的な生き物なのだと、つくづく思い知らされる。父は確かに厳格で真面目で頑固であり、同時にお茶目で陽気で柔軟なのである。
「社会に出ろ」と一喝する父も、フグのぬいぐるみを買ってくる父も、矛盾するようで破綻していない。人間とはやはり不思議なものであり、だからこそ愛おしいものなのだと、父を観察していると思う。そしてそう思いを馳せるたびに、自分自身の中の一見相いれない一面も愛おしく思えるのだ。
退院日は父の日に間に合わなかった。しかし、少し遅ればせながら、ぬいぐるみでもお返しに返そうかと思っている。それはもちろん、実寸大のフグに対抗できるような何かである。