女の子が泣いている写真に「【悲報】長女、いじめにあう」という文字が書かれている。

投稿したAさんとは面識があり、子どもの年齢が近かったこともあり、私は内容に興味を持った。

Aさんの投稿を、普段からあまり見ているわけではない。海外に移住した彼女は、よく生活ぶりを自慢するような投稿していたからだ。「日本のここがダメだ」という内容も多く、日本で3人の子育てをしている私にとっては、正直言ってポジティブな気持ちになれるものではなかった。

だけど今回は1枚目に書かれた「いじめ」が、ふと目に留まったのだった。

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その投稿をスワイプしてみると、小学校で起こった出来事が書かれていた。

Aさんの長女はクラスメイトから「お前の国は戦争で負けた国だ!」とからかわれたらしい。それに対して長女は「その話は、するものじゃないよ」と毅然と言い放ったとのこと。一連の流れを見ていた担任の先生がAさんに電話をしてくれて、発覚したようだ。

投稿の最後には「相手のクラスメイトは先生に反省文を書かされていた。長女よ、よくやった!」というオチで締めくくられていた。

なんだこれ? と私は思った。もっと別のものを期待していたからだ。

私の長男は「小学校に行きたくない」と言う日が多く、公園に行っても「お友達と喧嘩した」と1時間もしないうちに帰ってくることが多い。長男に話を聞いてもだんまりで、私の知らない世界で何が起こっているか知りたかった。

どう親が対処すれば良いのか、先生はどこまで助けてくれるのかも分からなかった。その答えがAさんの投稿にあるのかと思いきや、そんなことはなかった。

読んでもらいやすいタイトルの皮をかぶった、ただの自慢だった。

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でも私には、どこか思い当たることがあった。ひょっとして私もSNSやブログを投稿する時に、同じようなことをしていたのではないのか?Aさんのように読まれやすいタイトルで釣り、なんとなく良い話で終わらせて、読者を置いてけぼりにした自己満足で終わっていないか?

改めて自分の書いたものを読み返してみると、その通りだった。がんばる3児ママアピールをしていたり、心で思ってもいないキレイな結論に無理やりしているものもあった。

人はたくさん会話をして、そこはささやかな自慢や、なんとなく良い話も含まれている。誰でも憐れみの目で見られたくないという気持ちや、すごいと思われたいと願っているからだ。

あれ? と思った内容でも、会話の中なら「ふーん」で流せる。でも文章でそんなものを読まされると、正直たまったもんじゃない。「なんか嫌なもの見ちゃったな」という後味の悪さだけが残るからだ。

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事実をありのままに述べて、本当の気持ちを伝える。たとえ3ミリでも、嘘や自慢をのっけてはいけない。なぜならその3ミリに読者は気付き、気持ち悪さを覚えるから。これが「文を書く」ということの意義なのだ。

Aさんの投稿には、今となっては感謝している。あの日から文を書く時に「タイトルと乖離して、読者の期待を裏切る内容になっていないか?」「自慢になっていないか?」と、意識して書けるようになったからだ。書き終えた後に見直して、3ミリでも自己欺瞞をしていないか確認できるようになったから。

あの経験がなかったら、私はなんとなく耳障りの良い文を書き続けていたと思う。

良い文章をたくさん読むことも大事だけど、には自分が「嫌だな」と思った文を読むことも大事だ。「なぜ嫌だと思ったか?私もそれをしていないか?」と分析することができるからだ。

新しい私になりたくなった時は、またAさんの投稿を見に行こうと思う。なるべく元気がある時に限ってだけど。