朝の八時四五分。いつもの快速列車にかろうじて体を放り込むような日々。こんな日々がもう二年と少し続いているという事実に驚き、そして耐えてこられた自分自身にも信じがたい気持ちだ。

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保育士として新卒で入社した放課後等デイサービスは、感情労働だ。発達障害を持つ子供たちの療育というのは、砂漠に水を撒くような果てしないことだと実感し、ふとした瞬間に何かが崩れそうになる。

子供から「先生」と呼ばれるたびに自分自身が彼らにとっては「先生」であることを再認識し、それと同時に家に帰れば先生じゃない瞬間の自分自身もいるのになという社会の二面性に気が付いてしまった。そうか、社会人というのはみんな二面性を持っていて当たり前なのかという虚しさに、社会って、そんな社会人たちの集まりで成り立っているのだという事実に気が付いてしまったのだ。

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入社して三年目に突入した今、私はいわゆる無気力症候群だと思う。なにもかも病名をつければいいというわけではないが、人は同じ場所に停滞し続けることを本能で拒む性質があるのではないかと思う。

みんな同じように電車に乗って、同じように駅のホームに吐き出され、いったいどこに向かっていくのだろうかと感じる朝。
何が楽しくて、何をモチベーションに、どんなことを生きがいとして日々働いているのかと道行く人に尋ねたくなるこの頃。

「仕事が楽しい」に越したことはないが、私は今「楽しい」というよりは、どちらかというと日常の平穏をより平穏に保つために働いているのだという感覚が大きい。

だけど、私は今仕事に対してやりがいを求めている。専門職が多く働く放課後等デイサービスは、作業療法士であったり心理士であったり、様々な勉強をしてきた人が様々な方法で子供に療育をする。そんな彼らを近くで見ていて、みんなは自分の仕事を全うしているようで、キラキラして見える。保育士の私は、ただ「存在」だけしているようで空しく感じる時がある。

何のためにここにいるのだろう。私は何かを成せてはいないのではないか。ただ母性だけはだれよりも強いという自信がある。だからこそ子供に真心を込めて接しようと心がけていた一年目。発達障害の子供たちには、こんな母性が伝わるわけがない。自己効力感が薄れていくような日々に、日々嫌気が差し、何かが崩れていくような気がした。

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だましだましやってきてもうすぐ三度目の夏が来ようとしている。私は去年もこの時期にエッセイを書き、その時には「自分にしかできないことを探す夏にする」と宣言したはずなのに。あれから私はどれだけ変われたのであろうか。

人は一日では決して変われない。だけど、変わろうとしたその日から一ミリずつ何かは成長していくものだと私は思う。 

今日は挨拶を明るくしてみるだとか、今日はいつもより気合を入れて出社してみるだとか、今日は子供の目を見て話すことを意識するだとか、そんな小さな一滴一滴が集まって運河になるのだと私は思う。

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この夏は、自分が存在する意味だとか、やりがいだとかは二の次で、自分自身今日彼らに何を与えられるかについて模索していく夏にしようと思う。そうして一生懸命になるうちに、私は一ミリでも二ミリでも少しずつ変わっているのではないかと確信している。

あの人がこうだとか、こういう面が大変だとか、言いたいことは尽きないけれど、今日も仕事があることに感謝して自分自身に何ができるのかを考えて行動していくことこそが今よりも三ミリ新しい私への一歩だと思う。