「辞めます」

私はこの決断をするのがとても苦手だという自覚がある。
理由ははっきりと言い表せないが、辞めるということが逃げを選んでいるような気がしたり、周りから忍耐力が無いやつだと思われたくなかったり、自分から辞めることがなんだか負けたような気持ちになったりと、とにかく自分から「辞める」をはっきりと口に出すことがなかなか出来ない。

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小学生の頃、スイミングスクールに通っていた。始めたきっかけは友達が通っていたからだったと記憶しているが、学年が上がるにつれて一緒に通っていた友達はどんどん辞めていった。水泳のスキルとしても学校の授業で苦労しないくらい人並みには泳げるようになっていたので、正直「辞めたい」と思っていた。

今思えば、行きたくもないのに毎月毎月高い月謝を払って習い事を続けているなんて馬鹿馬鹿しい。自分が親だったら辞めたいなら言ってくれればとっとと辞めさせられるのに、とさえ思ってしまう。

しかし、まさか私が辞めたいと思っているだなんて知る由もない母親は、「長いこと続けて偉いね」とか、「また進級したのね!すごい!」などと褒めてくれてしまうばかりに、私はますますその「辞めたい」が言えなくなってしまった。

結局、小学校高学年になり、塾の曜日と水泳のクラスの開講日が重なってしまい、どうしても続けることが出来なくなった。私はまるで”まだ続けたかったのに……”と言わんばかりに、「曜日が被ってしまって水泳を続けられなくなってしまったのが残念。中学生になって落ち着いたらまた水泳も再開したいな!」と言いながら辞めた。もちろん、中学生になってからも再開することは無かった。

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大学生になり、私は大学の近くの飲食店でアルバイトを始めた。とても雰囲気の良い職場で楽しく働いていたが、しばらくすると社員の異動があり、店長が変わった。新しい店長は決して悪い人ではなかったが、なんだか初めましてにもかかわらず妙に馴れ馴れしい感じで喋りかけてくる人で、私は少し苦手なタイプだった。

店舗の雰囲気もガラッと変わり、新しい店舗の雰囲気についていけないと言って、一緒に働いていたアルバイトスタッフが次々と辞めていった。私も辞めたいと思ったが、店長から「今月もシフト厳しくてさ~、もうちょっと勤務時間増やしてくれないかな」なんて言われてしまったら、もう辞めたいなんて言い出せない。

しまいには「仕事も早くていつも助かってるよ〜、これからも宜しくね」と言われてしまい、辞めたいと思いながらもそれからダラダラと半年以上続けた。

ある時、店舗の改装に伴う数か月の休業が決まり、少し離れたところにある系列店へのしばらくの異動を勧められた。私は自宅から距離が離れてしまうことを理由に、「続けたかったんですが、距離が遠いので異動は難しいです。改装が終わり営業再開したら戻ってきますね」と言って異動の話をかわした。

もちろん、営業再開しても戻ってくることは無く、自らの”辞めます宣言”は無いままに、別のアルバイトに乗り換えることに成功した。

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それからしばらく時が経ち、時は社会人5年目。新卒で入社した企業は、学生の頃から興味があった業種の会社だった。入社して3年目の異動で、ずっと希望していた部署にも配属された。
しかし蓋を開けて見れば、想像していたのの何倍も激務だった。あまり大きな声では言えないがパワハラもあり、サービス残業も常習化していた。
このままではメンタルをやられてしまうかもしれない。「辞めたい」何度そう思ったことだろう。しかしこれまでの人生で自分から辞めたいと言ってこられなかった私が、今更自分から辞めたいと言えるわけもない。そんなこんなで、いくら辛くても、上司には良い顔をしながら、頼まれた仕事はいつもニコニコとこなしてしまっていた。

今にも擦り切れそうになっていたそんな時、私の耳に飛び込んできたのが、とある曲の「未来は無限大」「遅すぎるなんてない、今が一番早い決断」という歌詞だった。この曲は、友人の門出を祝うプレゼントとして贈られたものらしい。

厳密にいうとここでいう”門出”というのは転職ではなく独立だったそうだが、それでもこの時の私はまるで自分のために書かれた曲なのではないかと錯覚するほどこの歌詞に勇気づけられた。

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こうして背中を押された私はすぐに転職活動を始め、数社の最終選考に進み始めた。そしてついに、今までの人生で自分の口からほとんど発してこなかった「辞めます」を発する日が来た。

事前に上司のスケジュールと個室を押さえたものの、当日は朝から手の震えや冷汗が止まらない。緊張や、怖いとも違うような、言葉では言い表せない感情。しかしもう後戻りは出来ない。

2人きりの部屋に入ると、私がこれからどう社会人としてキャリアを築いていきたいのか、どうしてこのタイミングで転職を決断したのか、次はどこでどんな仕事に就こうと考えているのかなどを丁寧に説明し、最後にはっきりと「辞めます」と言えた。

意外にも上司は私の考えを応援し、新たな門出に向けた決心を快く受け入れてくれた。

こうして私は、これまではっきりとした決断を避けてきた”辞める”について、一つの新しい成功体験を手に入れることが出来た。
今の職場ではまだまだ経験が浅く、知識不足や力不足を感じる場面にも多々ぶつかっており、全てが上手くいくわけではない。しかし、”自分の決断に後悔の無いように生きる”という新しいカードを手に入れた今の自分は、今までより少し強くなって新しい一歩を踏み出すことが出来るようになった。