博士号取得後に任期制の職に就いた研究者を博士研究員、通称ポスドクと呼ぶ。
わたしはそのポスドク経験者だ。しかし、無我夢中で学んだ先に、輝かしい研究者人生が待っていたわけではなかった。

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なんとなく憧れたからという理由で、大学進学の際に理学部を選んだ。受験で有機化学が得意になり、大学でも専攻したいと思ったが、授業についていけず早々に挫折した。一年生の成績表は散々だった。このままでは卒業どころか、いずれ進級もできなくなる。そんなわたしを救ったのは、高校で履修選択しなかった生物学だった。

不思議なことに、二年生でほぼゼロから学び始めたこの分野に、文字通りのめり込んでいった。論文を書き、博士号を取得したのは28歳のときだ。
博士課程は刺激的なものだった。研究を通して多くの教訓を得た。すばらしい人たちと出会った。だが、自分の成長が、思い描く研究者像と程遠くもどかしかった。

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30歳のとき、会社員の夫が米国への海外赴任を申し渡される。ポスドクだったわたしの研究は、論文発表できる段階になく、まだ道半ば。正確には難局に直面していた。さらに、夫とわたしは別の問題も抱えていた。互いに多忙だったせいか、長く子どもを授かれずにいたのだ。海をまたいでの別居は、家族計画のさらなる遅滞を意味していた。

帯同するのか日本に残るのか。迷ったあげく、渡米を決めた。そのため、退職までの短期間で苦境を脱すべく、死に物狂いで実験した。トンネルを抜け出たと分かったときは、顕微鏡の前で手が震えるほど興奮した。
引き継いでくれた研究者や多くの人の尽力で、数年後、この研究がすばらしい成果となって世に出てくれたことには感謝が尽きない。

わたし自身も米国で新しく所属先を見つけて研究者を続け…となれば理想的だっただろう。しかし、現実には専業主婦になることを選んだ。今振り返ると、妊活に専念すると自分に言い聞かせながら、その実、必死に探しても行き先が見つからないかもしれない恐怖に負けたのだと思う。こうしてわたしの研究者人生は幕を閉じた。

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反面、米国での暮らしはとても新鮮だった。研究発表で鍛えた程度の下手な英会話でも、度胸だけで案外通じた。語学学校で出会ったいろんな国籍の人が、元ポスドクだと言うと“Amazing!”と目を輝かせてくれた。初めての育児で必死に書き留めた授乳や寝かしつけの記録が、「研究者の実験ノートそのもの」と夫を驚かせた。研究に邁進した過去の自分は遠く小さな点となってしまったが、いつも細い線でつながっているように感じた。

本帰国はコロナ禍只中の2021年だった。話を聞かされたとき、再就職の意欲が湧いたと同時に、強烈な不安に襲われた。子育てと両立できるのか。自分を雇ってくれる場所はあるのか。居ても立っても居られなくなり、帰国を待たずに動き出した。
夫と相談して新居を決め、近くの認可外保育園にメールで事情を説明して、空きを確保してもらった。職も、畑違いにもかかわらずIT企業に在宅勤務の社員として拾ってもらえた。コロナ禍で浸透したリモートワークやWEB面接がなければ、ここまで積極的に職探しできたか分からない。今思い返しても、本当に運と縁に恵まれていたと思う。

30代を折り返してから、育児の傍ら翻訳を始めた。在米中にその面白さを知り、本格的に従事すべく目下奮闘中である。コロナ禍や働き方改革によって、社会は大きく変容している。これからもその流れの中で、生き方を模索し続けたい。

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夢は花のようなものだと思う。生涯同じ花が美しく咲き続けてくれれば幸せだろう。でも、たとえ枯れても別の種が芽吹きを待っているかもしれない。わたしは今も、自分の中の新しい芽を育てている。その芽が、これまでのあらゆる「学び」の先で、大輪の花を咲かせることを期待して。