高校生の文理選択で理系、大学受験で文転したタイプの人です。
高校生の時の勉強や大学受験においては後悔も多く、もし今高校生に戻ることができたら、間違いなく文系を選ぶ予定です。
今後この考えは絶対に変わりません。
高校入試の際、点数開示で理科の点数が高かったことで、理系選択をしました。
できるは楽しいに直結します。それも安易に。
楽しいができるに直結することもありますが、残念ながら私の場合は一方通行だったようで、すぐに挫折してしまいました。
というわけで文転。
と言っても、大学の入学した学部が文系の学部なだけで、大学受験でも、最後まで理系受験でした。
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文転した今でも、理科そのものは好きなんだなと感じる場面があります。
心理学を専攻しているので、大学の授業内で脳の仕組みについて学ぶことが多く、それについてはとても面白いと感じます。
ただ、「面白い」だけなんです。
ここに文転をした本当の理由があります。
理系科目の知識を面白いと感じ、純粋な知識欲を満たすだけでは、確かに何かを生み出していることにはなりません。
単に面白いと感じるだけでは、社会では生きていけませんでした。
しかし、この「社会の役に立てないと意味がない」という考え方には今でも疑問を感じています。
純粋に面白いと思って勉強していることが、社会の役に立たなければ意味がないと言われたり、何より自分自身がそう感じてしまう瞬間が度々あります。
学んだ知識が実用性を持たないと感じたとき、その学び自体の価値が失われるように感じるのです。
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この感覚は理系に限った話ではありません。
歴史や読書に対する純粋な知識欲も同様です。
高校時代、私は世界史の授業が好きで、現在もローマ帝国についての文献を読むことがあります。しかし、「それが何の役に立つの?」ということをよく言われてしまいます。
活字好きが表れる読書においてもそうです。その本を読んでどんなことを学びましたか?という質問が常について回ります。
それらの行為が何も生み出さない、役立たない、と感じた瞬間、その行為に意味がなくなるのはとても哀しいと感じます。
しかし、そんな私も、活字で暮らしていこうとしています。私が文章を書くのは、好きなことと社会との距離が比較的短いからです。
文章は、社会にそのままの形で排出されるので、それがそのまま社会に役立つと感じられます。アンチ「社会に役立てる」派の私が一番社会との距離に対して日和見しているのです。
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でも、今学生の皆さんには、私のように怯むのではなく、好きなことを貫いて欲しいと思います。皆さんが好きなことを続けることができる社会を作るために、私も努力します。
私は皆さんが好きなことを追求できるように活字で対抗し続けます。
だから、もう少し待っていてください。
理系だろうと文系だろうと、自分が本当に興味を持つことを純粋に追求できる方が、楽しいに決まっています。
そして、好きなことをすれば良いと多くの大人が言います。私もそう思います。
しかしやはり、言うは易しなんですよね。
その大人には是非、好きなことを貫くことが現代社会においていかに難しいかも同時に教えてほしいですね。
そしてその大人がどうやって日和見したかも一緒に伝えてほしいなと思います。