「学び」とは一体、なんなんだろう。
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幼い頃から「勉強しなさい」と言われた覚えがない。
覚えはないが、それこそもの心つく前から公文をはじめとする習い事に通っていて、
所謂「学校的な勉強」というものが習慣化していたようには思う。
テストは毎回満点、夏休みの宿題は最初の1週間で終わらせてしまうことが当たり前。
小学生の頃の私はそういう優等生的な子供だった。
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雲行きが変わってきたのは中学に入学したあたりから。
進学先で憧れの演劇部に入部した私は部活に熱中し勉強はそっちのけになった。
そっちのけにしていたつもりはないが、小学生までは遊んでいても学校の勉強なんて楽勝だったから、その認識のまま中学生活をスタートさせたといった方が正しいかもしれない。
我が母校は1年前倒しでカリキュラムが組まれている様なとてつもない授業スピードの進学校。
授業なんてまともに聞いていない私が中学1年生の1学期、授業についていけなくなるのもあっという間だった。
小学校までは私勉強できる!と胸を張っていた私も、周りの優秀な同級生たちと比較して、ああ、自分って勉強できないんだ……と思い始める時代の始まりである。
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勉強なんて嫌いだ。
授業についていけなくなるとそれまで好きでも嫌いでもなかった勉強は明確に嫌いなものになり、授業に出席しても惰性でノートに板書する日々。
周りは100%進学するから自分も大学に進むのだろうと、これを学びたい!ここにどうしても行きたい!という明確な目標もなかったが大学受験もした。
しいていうなら、声優になりたいから上京したい。それぐらい志望も薄い進学だった。
無事志望校に合格しても、勉強嫌いになっていた私は授業をまじめに聞いていたかというとやっぱり内職をしながらの片手間で、今振り返ってみてもどんな授業を受けていたか朧げにしか思い出せない。
そういう一見真面目に見えるがその実不真面目な学生。それが私だ。
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就活もせず役者として舞台に立っていたころ、家電量販店でフルタイムのアルバイターをしていたころ、学生時代に学んでいたあれやこれやが役立った実感はあまりない。
むしろ、進学校を出て四大をストレートで卒業したという無駄なプライドが邪魔をする場面ばかりが今になると思い出される。
コロナを境に就職に舵を切った時も経歴としての「学歴」は30を過ぎてみれば最早なんの意味も為さない。
就活のとっかかりになればと「学んだ」WEBデザインのノウハウも派遣社員になった今、まったく活用される気配はない。
これは私にとって「学ぶ」ということが、いつも何者かから押しつけられたものだったからだろうか。
学校では勉強するもの、大学生にはなるもの、資格や知識を持って就活には挑むもの。
その「学び」の先に何があるのか、何のために学ぶのか、そこに疑問はひとつも無く、勉強することは手段では無く目的だった。
いつも周りの「正しい」という圧力に流されながら「勉強」というポーズをとっていたなと今になって思う。
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人生100年時代と言われる昨今、巷では盛んに「大人も学びを」と喧伝されている。
こういう生き方をしてきたからか、そんな広告やスローガンを目にする度に、その学びの先には何があって何を目指して人々は「学ぶ」のだろうかと思ってしまう。
「学ぶ」ことが悪いといっている訳ではない。
その学びの先に何を得たくて、何を成し遂げたいのか、目的のはっきりしない、なんとなくやっているつもりの「学び」って結局何になるんだろう。
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就職先が決まらずに苦労していたころ、面接でこれまでの私の経歴を見た面接官が、「色々と書いて頂いているけれど、これまでやってきたことの関連性が無さすぎる」と困ったように笑っていたのを思い出して少ししんどい。
私としては総て繋がっている学びも他人から見れば脈絡が無く取るに足りないものらしい。
自分はどう繋がっていると思っているのか、どうしたら望む方向に繋がるのか、その言葉も知識も持ち合わせずに私は素っ裸のままこの人生100年、国民皆学時代を生きていくのだろうか。
「学び」の先が見当たらなくて私は途方に暮れている。