新卒で入った製造メーカーは、大きくはなかったが明治創業以来の歴史のある会社だった。ただ、憧れのオフィスビルとはほど遠く、建物のまわりの風景は工場と煙突。どこも古くすすけた感じでイケてる職場とはいえなかった。お気に入りの香りで朝シャン出勤しても、帰る頃にはすっかり原材料のゴムの匂いが髪の中まで染みついていた。ここはいつかは退職するだろうと思いながら働き、30代で退職した。

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その後にいくつもの職場を経験したが、どこへ行ってもこの会社が最初でよかったなと思える点がひとつだけあった。
すべての社員が作成する「業務引き継ぎ書」があったこと。「マイタスク」というタイトルのついた書式は、当時は紙に手書きのものだった。

引き継ぎ書の作成は、業務内容の変更に応じて各自で更新し、定期的に上司に提出するため、業務の引き継ぎが生じても少し修正する程度で、すぐに後任者に渡せるくらいに整えられていた。

男性は数年ごとに転勤や異動があり、女性は結婚退職が崇められていたウン10年前で、いずれ退職することを考えると、業務引き継ぎ書の存在は理にかなっていた。

私の前任の女性は短大を卒業後、派遣会社から半年の契約で来ていた女性だった。その引き継ぎ書は、社会人らしい整ったきれいな字で書かれていた。引き継ぎの際は、そのコピーをもらい、業務の説明とともにわかりにくいところは質問をしてさらに整えられていく。これは日々のお守りのような存在だった。

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同年代の友人の会社には、この「引き継ぎ書」というものはないと聞いた。前任者が過去に作業したファイルを参考にしながら進めるらしく、どうやって仕事をするのか理解できずに驚いた。

のちに派遣で仕事をした会社の中にも、引き継ぎ書がないのが当然の組織もあった。
引き継ぎ書がないと、何度も重いファイルを取り出しては戻す往復があり、最初は本当に時間がかかりストレスだった。

また年齢が上がるほど、一度の説明では理解できなくなるため、ノートに書いて書いて自分用の引き継ぎ書をいつも作っていた。

ある職場の部長に、うちには引き継ぎ書がない、誰も作らないから作り方を知らない、今の業務で一度作ってもらえないかと依頼され、作成しながら通常業務をすることになった。結局それが、自分たちのしていないことを派遣がしていると、気に入らない態度の女性上司からパワハラを受け、忖度なのか同じ部署の女性からも嫌がらせを受けることになった。

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そんな状況では仕事ができないため、結局退職することになり、後任の若い派遣女性のために、残りをきっちり作成をするが、それが少し残業になると、作ってと頼んだ部長も不満を口にした。でも最後には「うちにないものを作ってくれてありがとう」と言ってくれた。

業務引き継ぎ書というのは、ベテランの先輩や同僚など、前任者が作成する業務内容の全てが記された説明書だ。
引き継ぎ書の内容がよくできているか、そうでないか、説明がうまくても、へたでも、その前任者からしてもらうしかないのだ。

また別の職場では、前任者がすでに退職しており、引き継ぎ書をパッと見てゾッとするくらい、改行のない文字で、びっしり埋め尽くされていたものがあった。それは何度読んでも理解できず、他の理由もあり試用期間内にお断りした。

引き継ぎ書は本来、誰が見てもわかる内容にしておかなければいけないのだが、経験したいくつかの職場でも、通常モードで忙しい、また不満による退職の場合は、内容が十分ではなかったりする。そうなると引き継ぐ側は、自力で大量の書き込みをし、さらに内容を追加していくことになる。

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説明に関していうと、世の中には「『わからない』ということがわからない人」というのがいる。

学生時代、私は数学が本当に苦手だった。
基本問題は解けても応用となると、頭がとたんにリセットされ、全く別の問題を解く感覚になり前に進めなかった。

高校時代の数学の授業中にこんなことがあった。
黒板に書かれた問題を解いている生徒を見回っている先生に、「先生、解き方がわかりません」というと、「とりあえず、解いてみ、解いてみ」といわれた。
「いえ先生、その『解き方』がわからないんです」とさらにいうと、
「いやとにかく、まず解いてみ」といいながら通り過ぎていった。

日本語が通じないとしか思えないやり取りだった。
私には、先生自身が説明ができないから逃げた、という態度にも見えた。もっといえば、この先生はダメだと思った。

解けない人の気持ちがわからないのだ。

これは学生時代に勉強ができた人のなかにわりといるタイプで、数学のとっかかりや考え方を難しいと思わず、素直に問題を解くことができた幸運な人なのだろうと思う。

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私には業務引き継ぎ書を作る際の思いがあった。前任者のやってきたことを、さらに私が時間をかけて改善した内容を基本として確実に引き継ぎたい。好きな仕事ではなくても、何年も逃げずに真面目にやってきた仕事。それなりに苦労もあった。

後任者の方には、私の改善したことに同じ時間を費やすことなく、スタートしてもらいたかった。いつだったか「この引き継ぎ書、見たらすぐわかります!」といってくれた人もいて本当にうれしかった。

また見ていて説明のうまい人というのは謙虚であり、「わかりにくいところはない?何度でも説明するよ」と言ってくれたりする。
相手に対し一歩下がり、自分の説明が相手のレベルに合わせた説明になっているかを考えながら説明をしている。

世の中に説明のうまい人、へたな人がいるなら、本当にうまい人は少ないのかもしれない。
たとえ「業務引き継ぎ書」というものがあってもなくても、説明がうまくてもへたでも、そんななかで人は先生になったり、会社で働いたりして、いつの世もそれぞれの方法で、誰かに仕事を引き継いでいくということなのだろう。