親と縁を切る方法はないらしい。相続放棄をするとか、戸籍を分けて閲覧に制限をかけるとか、親が自分の人生に接触してくる可能性を限りなくゼロに近づけることしかできないようである。そしてそれがゼロになることはない。現時点では。

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わたしは母親が嫌いである。嫌いな理由はいろいろあって、過去エッセイにも綴ってきている(たとえば、このエッセイとか)。でも嫌いだと明確に思うことができるようになったのも、こうして世間に表明できるようになったのも、つい最近のことである。これまでは、無理にでも定期的に帰省したり連絡を取ったりして、疲弊する日々を繰り返していた。”愛していなければならない””感謝しなければならない””嫌いと思ってはいけない”と、なんとなく頭の片隅でそう思っていたのだ。

確かに、大きな不自由を感じることなく社会へ送り出してくれたし、その際にわたしの意志を貫くことを許してくれた。一人で生きていく上での実用的なスキルだって母親から学んだものであるし、尊敬できる点や好きだと思う部分ももちろんある。

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わたしが信条にしている言葉で、「犯罪者にだって良いところはある」というものがある。そういうことなのだ。どうしても許せない一点があるだけで、他は愛嬌だと思えるし、なんなら好きだし、魅力的なのである。だからこそ、その一点だけで嫌いだと断言してしまうことをためらっていた。ましてや肉親なのだから。実家を出るまでの十何年間お世話になり続けたという引け目も重なる。

”boundary”

これがわたしの今年のテーマである。直訳すると「境界線」、心理学的には「自分と他者との境界線」という意味で用いられる。
彼女にはこれがなかった。

全くない、というわけではない。ある程度あるし、ある程度ない。その「ない」瞬間に触れた時、どうしようもなく腹立たしくなるのだ。三日も四日も引きずる。

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わたしもわたしで、彼女に対して境界線を引けていないのである。何日も持ち越しては感情を支配されるくらいには入り込んでしまうのだから。そういうのをやめたい。彼女の一挙手一投足、一言一句に振り回されるのはもう御免である。

大なり小なり、何かが上手くいかなかったとき、失敗したとき、どうしてもその根源を彼女に見出してしまう。そういうのはもう終わりにしたい。自分の人生を誰かのせいにするなんてそんなダサい自分を捨てたいのである。

たとえ肉親でも。相手は自分にはなれない。そして、自分も相手にはなれない。だから、分かり合えないこともあるし、理解できないこともある。もちろん傷つけることもあれば、傷つけられることもある。それが悪意でないのならば、誰が悪いということでもない。頭ではわかっているし、大方誰に対してでもその考えが抜けることはなかった。たった一人を除いては。

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いつも会話をしているようでしていない。わたしの方から、主語から目的語まで詳細に突っ込んで引き出していなければ要点が掴めない。そのくせ会話の主導権は常に彼女にある。やっとこちらも主張できたと思えば否定ばかりで、瞬く間にその主導権はもうここにはなくなっている。いつでも、いつまでも被害者ぶったような物言い、思考。そのくせ自ら行動して変わろうとしない態度。わたしはあなたのカウンセラーではないと何度思っただろう。

「それ嫌だった」「傷ついた」「ごめんね」と心から言い合えないなら、友達以下だ。良くて知り合い程度だ。わたしこの人のこと嫌いなんだと、やっと思えた。

誰かにこの人が自分の母親だと紹介することが恥ずかしくてたまらない。最近では、この人が母親だという事実にも悪寒が走る。どうしても許せないその一点がために。
だからもう一緒にいることはできない。帰ることもない。わたしの人生の主導権は、いつでもわたしにある。

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心理学をかじっておいて、学び始めてから何年も経ってやっと気づくくらい、自分事と捉えるのは容易に思えて難しいものだ。でも気づいたからにはそのカルマから抜け出したい。

わたしたちの人生が今後交わる可能性がゼロであると断言したい。
母親とは、この二十代のうちに縁を切りたい。