数年前、発達障害と診断された。私の主治医は産休や退職など病院側の都合で何度か変わっているのだが、どうやら二人目の主治医の時に診断が下りていたようだ。

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精神病院に通い始めた頃、大人の発達障害がテレビで特集されるようになり、私もこれじゃないかと何度も一人目の主治医に聞いたのだが、診断は下りないと言われていた。心理検査も受けていたのだが、グレー中のグレーだったのだろう。心理検査の結果と経過観察を元にどこかのタイミングで診断が下り、それが伝わらないまま主治医が変わり、三人目の主治医は私がその診断結果を知っているものだと思っていた。

仕事に疲弊して倒れ、入院することになった時、入院に関わる書類を見て、私は自分が発達障害であることを知った。障害についてそんな告知の仕方はないだろうと私は怒った。そんなことをする主治医を信用できないと、入院中の診察をしばらく拒否していたくらいだった。その後、誤解は溶けたものの、不信感は残った。

そんな経緯もあってか私は自分が発達障害であることを受容できていない。それ以外に、自分でも自分が何に困っているかよくわかっていないという点と、生まれつきの発達障害というより後天的な生育環境由来の愛着障害の方がしっくりくるという点でいまいち自分が発達障害と腑に落ちていない。

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自分が何に困っているかわからないのは、自己分析ができていないことと、何事もそこそこにできるから見極めが難しいことが要因だ。発達障害に関する本を読んだり、他の発達障害の方やカサンドラ症候群の方と交流して話を聞いたりしても、そうはならんやろとか、そこまでじゃないという感覚を覚える。

それらに関して、障害の程度が軽いと言われることがある。そして自分が何に困っているかわからないというのは、私は混乱の只中にいて、まだ自己分析どころじゃない状態だと言われることもある。どちらの言い分も当てはまると思っている。まぁ、現時点私は働けておらず、社会に適応できてないという点でめっちゃ困っているじゃないかという指摘には、ぐうの音も出ない。仕事をしている時は先輩から「仕事できているのに何がそんなに辛いのか」と言われたことがある。何が苦手というより、何事もそこそこにできるが、得手不得手に関わらず消費する労力が大きく、疲れやすいのだ。それが私の特性なのだろう。

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発達障害と言うと自分の特性を問われることが多い。特性は発達障害の人が抱える、困りごとにつながりやすい特徴などだ。「人とのコミュニケーションが苦手」、「落ち着きがない、忘れっぽい」などがよく挙げられる。発達障害特有の感覚なのかもしれないが、頑張ったらできるとか、工夫したらできるとかそれ以前に、そもそもその能力が備わっていない、欠落しているという感覚を覚えることがある。でもそれは経験や知識で補えるので、擬態できてしまう。そして擬態していることを周囲はおろか、自分でもわからないということもままある。自己分析の難しさはここにもあるだろう。

しかし私の「疲れやすい」のみだと相手も自分もいまいち理解に欠ける。福祉施設を利用する際の面談で、もっとそれらしいことを挙げねばとひねり出したのが「他者への興味が薄い」だった。環境が変わると縁も切れて友達と呼べる人がほとんどいない。興味がないのでそもそもそんなに仲良くなることができない。

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しかし私はけっこう人に好かれたり、可愛がられたりする。それは興味がないがためにハラスメントテイストのコミュニケーションをしないので、込み入ったことを聞いて不快にさせたり、無礼を働いたりすることがないからだ。そうやって説明しているうちに、むしろこれは長所ではなかろうかと思い始めた。当たり障りのないコミュニケーションができるのは現代にとって有用なスキルの一つだ。発達障害としての自己分析は自分の欠点探しのようで気が進まなかったのだが、この調子ならできるかもしれない。