大学生のころ、私は学習塾でアルバイトをしていた。
私が受け持っていたのは国語科だった。自転車で片道四キロの道をひた走り出勤。漢字テストをやってから授業をして、次回のテスト範囲と宿題を伝えて一コマおわり。これを二、三コマ繰り返して生徒たちを見送り、また四キロ自転車をかっ飛ばして家に帰る。
普段は夜だからまだ良いが、夏期講習の時期は昼間に授業があり、往復八キロの道のりは地獄だった。
◎ ◎
印象に残っている生徒がいる。彼女は当時中学生だった。よく喋る人懐っこい子だったが、勉強は好きではなかった。漢字テストの勉強も宿題も全くしていないくせに、休み時間になると教室から出てきて私に話しかけてくる。勉強したの?と聞くと、してない、と平然と言ってのける。全くいい度胸である。
彼女に「なんでテスト勉強しないの?」と聞くと、彼女はこう答えた。
「だって、わたし勉強できないもん。やったって意味ないよ」
ほんとに? 試したことあるの? 彼女はやっぱり、わたし頭悪いもん、としか言わない。
「じゃあ、一緒にやろうよ。まだ授業まで五分あるでしょ? 先生見てるから、ここで漢字見ていきなよ」
彼女は少しぐちぐち言ったが、なんやかんやで教材を持ってきた。難しいよ、絶対できないよ、いつも全然点数取れないもん……そんな言葉に、まずは勉強してから言いなさい、なんて言いながら、一緒に漢字を眺めた。
その日のテストで、彼女はいつもの倍の点数を取った。まだ五割にも達していなかったが、それでもいつもの倍だ。
「意味あったじゃん」
彼女は、でもこれだけだよ、と言う。
「授業前の五分見ただけでこんなに変わるんだよ?十分やったらもっとできるよ。学校の休み時間、十分だけ見てこれない?」
そのくらいだったら、と彼女が言ったので、じゃあ見ておいで、今度会ったら見てきたか聞くからね、と伝えて彼女を見送った。
次の時、彼女はちゃんと休み時間の十分間をテスト勉強に使ってきて、また私のところにやってきて愚痴を言いながら一緒に勉強をして、七割くらいの点数を取った。
「ほら、やればできるじゃん」
「この問題、覚えてたのに間違えちゃった」
悔しい。もっとできたはずなのに。そう思っていなければ出ないはずの言葉だ。じゃあ、次はもっと勉強しておいで。やればできるんだから。彼女は黙ってうなずいた。
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それからそんなやり取りを何度も繰り返した。授業中の問題演習でぼんやりしているときも、まずは読むだけ読んでみてよ、この四択の問題だけ解いてみなよ、と少しずつ声を掛けた。
宿題も同じように、まずは五分、読むだけで良いから読んでおいでと言うと何問か解いてきた。読むだけで良いって言ったのにこんなに解いてきたの? と言うと、時間あったから、と言う。採点もちゃんとしてあって、この問題、なんでこれが正解なの? と聞いてきたから解説をした。
いつの間にか当たり前のように漢字テストはほとんど毎回満点になり、以前なら取り組みもしなかった記述問題も書くようになった。宿題も言わずともやってきて、解説を読んでわからない問題はいつも質問をしてくれた。記述問題で満点の丸がついた日は、それは誇らしげだった。
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ある冬の日、彼女が話しかけてきた。
「ねえ先生、あたしね、最近本読むんだ」
難しい本じゃないけどね、と言いながら彼女はリュックサックから図書館で借りたらしい本を取り出して、面白いんだよ、とあらすじを教えてくれた。嬉しかった。勉強できないからやったって意味ないと言っていたあの子は、授業中に問題文を読まずに机に伏せていたあの子は、もうどこにもいなかった。
今、彼女がどこでなにをしているかは知らない。たぶんもう成人を迎えたはずだ。なにをしているかは知らないけど、きっと大丈夫だと信じている。だってあの子は、自分はできると知っているから。