20年来の友人がいる。

人生の半分以上を共に過ごした人間がいるというのは他人の話として聞けば不思議であるが、当人としてはあまり実感がない。
他の友人たちには「それってどんな感じ?」と聞かれる。

どんな感じ?
強いて言うなら「そうあることが自然だった」。
これはかなりカッコつけた言い方。
本音を言うなら「一緒にいたら20年経ってた」だ。

20年なんて途方もない数字だ。けれど、人生を振り返ってみたときに彼女は必ず記憶のページのどこかにいる。毎年、必ず。

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彼女は全てを自己完結させている子どもだった。
お弁当は自分で作り、広い一軒家の掃除をし、それでもその事実を自分から漏らすことは決してしなかった。
私が家の「お手伝い」に不満を言う中、彼女は黙って家の「運営」をしていた。
彼女は主婦であり、家の経営者であり、それでもまだきっと子どもだった。
私はただ彼女に憧れるばかりで彼女が同じ子どもであるとわかっていなかった。

彼女は大人だった。
一足先にアルバイトを始めた彼女は、違う高校に通う私の愚痴をよく聞いてくれ、食事代を払ってくれた。
「割り勘でいい」と言う私に「働き始めたら返してよ」といつも言った。
初めてブランド物のコスメを使ったのも、彼女からの誕生日プレゼントだ。
金色の高そうなケースに入ったピンクのルージュ。
私でも知っているブランドだった。
何度も使って中身がなくなったそれは、今でも化粧ポーチの中に入っている。
勝負のときにはそれを握り込む。
彼女に勇気をもらうために。

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彼女はいつも私の味方でいてくれた。
初めて親に逆らった日。
息が苦しくなって私は部屋に走った。
誰かに助けて欲しくて、スマホを握りしめた。
でも誰に言えばいいのかわからず、そういえばこれもあの親が買った物だと思った。

気づけば泣いていた。涙が後から後から沸いた。喉の奥に詰まった涙で息が苦しくて溺れそうだった。
頭の中は真っ白で、自分がどうして泣いているのか、何に泣いているのかわからなかった。
そのとき、スマホが光った。
画面に映されていたのは彼女のアイコン。滅多にない電話だった。涙が落ちている画面を指でタップした。
当時は必死で気づかなかったけれど、今思い出すとあれはとんでもなく素晴らしいタイミングだった。
「寿司食べに行こう」という電話があの瞬間かかってこなかったらと思うとゾッとする。
あのときになってようやく、私はいつも彼女に助けられていたのだと気づいた。

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先日、彼女が私の家に来た。
目の前で私を見る彼女は、綺麗になった。大人になった。
私たちは周りの結婚ラッシュに辟易し、共通の友人の将来を心配し、自分たちの将来を嘆いて笑った。
私たちの見た目も会話の内容も昔と比べて随分変わった。
でも、彼女の優しい目や特徴的な引き笑いは何一つ変わっていない。

これから先の20年について考える。
私たちは40代だ。
結婚しているかもしれない。子どもがいるのかもしれない。地元を離れているのかもしれない。
同じものがひとつもなくて、全てが変わってしまっているのかもしれない。
けれど、これまでの20年と変わらず、これからの20年にも彼女は私の人生にいるのだと思う。
それだけは変わらないのだと思う。
変わって欲しくない、と思う。