2、3年前、いじめを苦に自殺した中学生のニュースが世間を騒がせた。
聞くだけで辛くなってしまうような、酷い内容のいじめ。当初学校側や教育委員会の対応に不十分な点が多く見られたこともあり、度々事件に関する報道が流れた。被害者の中学生のフルネームと顔写真とともに。

それを見る度、なぜだろう、と思った。名前に関してはまだ分かる。けど、関係者の発言だったり、第三者委員会の調査報告書だったり、そういったものについて伝えるとき、どうしていちいち被害者の顔写真が必要なのか。

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私だったら、何度も自分の顔写真がニュースや新聞で取りあげられるのはすごく嫌だ。亡くなった後だとしても、それは変わらない。

仮に心筋梗塞や交通事故のような死因だったとしても、どうして一般人として暮らしてきた自分の写真を流されなくちゃいけないんだ、と感じるだろう。
この被害者のような場合なら、尚更だ。いじめの内容も報道されてしまっているのだから。このいじめをこの写真の子が受けたのだ、と、全国の顔も知らない人達に把握されてしまう。写真が流れる度に、見ている側は悪気なく考えを巡らせてしまう。そこから抱かれるのがどんな感情だったとしても、私なら嫌だ。

もちろん、事件の報道についてはなくてはならないものだと思う。
凄惨ないじめが中学生らの手によって行われたこと、それに対する関係者の対応と経緯。これらは広く知らされて、全国で再発を防ぐ流れを作っていかなくてはならない。
けれど、そのために都度被害者の顔写真まで載るべきだ、とは私は思えない。

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もしかしたら、私には想像もできないような複雑な事情があるのかもしれない。現場の人達にしか分からないことというのも、数多くあるのだろう。
仕方のないことなのだとしたら、その事情を知る機会も欲しい、と思う。知った上で報道を受け止めたい。一般市民に知らせるべきでない内容なのかもしれないけれど、そうでないのなら周知してほしい。
けれど、もし単に「慣習だから」「前例があるから」というような理由だけで写真が添えられているのだとしたら。報道機関全体でルールが見直されるべきなのではないかと、私は思う。

事件を世の中に知らせ、人々の意識を作っていく。それ自体は大変意義のある役目だ。けれど、その大義を果たすために、小さな配慮を捨ててはならない。

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死者は喋れない。
事件に巻きこまれて亡くなったような人たちは突然に死へと導かれたのだから、主張する暇なんてなかっただろう。いじめでの自殺だったとしても、報道機関で自分の写真がどう使われるかなんてことにまで気が回る人はそうそういないだろう。そもそも自死に至る時点で極限状態にあったのだろうから、それどころではないはずだ。

だとしても。被害者本人の意思が残されていなかったとしても、それを想像することはできるだろう。
この内容で顔写真を公開されたら、自分ならどう思うか。自分は気にならなかったとしても、被害者自身の年齢や状況だったら、どうだろうか。
そうしたことを考えた上での報道がされる世の中であってほしい、と私は願う。