リーマンショックが起きた年、父は仕事を辞めた。
家族の誰にも相談せずに辞めてきた。
勤めていた会社は大手の住宅メーカー。部長職だった父は定年まで勤めあげれば安泰なはずだった。
しかし、父は辞めた。人間関係が嫌になったそうだ。
家族は啞然としたけれども、どうしようもないから何も言わなかった。

◎          ◎

そこから、私たち家族は常にお金を気にしながら生活することになり、生活は一変した。
それまで母は専業主婦で、外食の頻度も高く、グランドピアノ購入を考えていたくらい、それなりに贅沢な暮らしぶりだったが、母はパートに行きはじめ、家族旅行も行かなくなった。

時代もあいまって、父は同じような大手には再就職できず、ブラックな会社を転々とすることになった。
それでも母は「家族の世話があるから」と正社員にはならなかった。

◎          ◎

そんな中で、私の大学受験の際には「私立の受験は不可、浪人も不可」という制約ができた。
理解はできるが、許し難かった。
当時私は、父を母を恨んだ。もっと努力してくれたらいいのに、と。

私は行きたい大学があったが、本番直前まで学力は遠く及ばずで、プレッシャーが募って眠れなくなっていた。
受験3日前には大好きだった祖母が亡くなり、ついに壊れた。
世界中で自分だけが難題に挑んでいる気分になった、と思う。そこから暫くの間の記憶がない。
後期試験の受験先は担任の先生が決めて出してくれていた。

我に返ったのは、第一希望の不合格が出たときだった。
後期試験の対策を始め、なんとか合格できた。
大学は思いがけず文学を学ぶことになったが、入ってみれば理想郷で、最高だった。
担任だった先生に心から感謝した。

就活は好景気もあって、思いのほか苦しまなかった。
父や母のようにはなるまいと、大手のIT企業に入社した。

◎          ◎

ただ入社してからようやく社会の厳しさが分かった。
厳しい上司、終わらない仕事、有能な同期、自分の能力の足りなさ。
情けないことに、入社当時は専門分野を大学で学んでこなかったことを言い訳していた。
辞めたいとずっと思っていた。
それでも辞めなかったのは、父のように辞めた後に苦労したくなかったからだ。
IT企業を選んだのは、父が転々としながらも無職にならなかった理由が彼のIT技術力と学んだから。
結局、自分が恨んでいた父の背中を私は追って、そして反面教師にもしていたのだった。

そして今年、私は一児の母になった。
育休前は、仕事仕事仕事で、「ここまでやってきた以上、この待遇を手放してたまるものか」と、会社を退職するなんて考えたことがなかった。
しかし、生まれたての赤子を預けて働きに出るのが果たして良いことなのか、全く分からなくなってしまった。
少しでも私が離れると泣き出す子供。
こんなに愛おしい存在に寂しい思いをさせることはこの子のためになるのか。
子供のために必要なことは、金銭だけなのか。
自身の体力の最大値も、出産を経て明らかに擦り減っている。

◎          ◎

そんなことを悩んでいるときに、いつも傍にいて、誰よりも寄り添ってくれたのは母だった。
思い返せば、家計が苦しいときも母はいつも笑顔で、みんなを散歩に連れ出してくれた。
本当は彼女も辛かっただろうに、文句は言いつつも、明るく振舞ってくれていた。
だから私も心折れずにやってこれたんだと気づいた。
外で稼げない母を蔑んだ過去を恥ずかしく思った。

赤ちゃんを育てる大変さが身に染みる毎日。
自分には、オムツを替えてもらった記憶も、授乳の記憶も、初めて離乳食を食べた記憶もない。
私は自分の子供を通して「記憶がない記憶」の追体験をしている。
自分の記憶しているはるか前から親には世話になってきたんだなと今更思い知った。
たとえ物心がついたとしても、子は、親の思いには気づかないんだろう。

◎          ◎

なんだかんだ、当時自分が気づかなかっただけで、多くの人に影響され、助けられてきたラッキーな人生だったと思う。
これからのキャリア選択はまだいい回答がみつかっていない。
それでも、今までの人生を振り返って、自分を見つめ直すことができたのは良かったと思う。
20代ギリギリで気づけて良かった。