私は高校生から大学生にかけて、おっかけをしていた。まだ推し活という言葉のない時に地元で活動している団体の一人にどハマりしたのだ。
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地元民なのにその団体の活動を生で見たことないと思って見に行った。素晴らしいパフォーマンスで、ファンになるまでに時間はかからなかった。そこから私のおっかけ生活が幕を開ける……前に受験があったので、受験が終わったら会いに行きますと推しに手紙で一方的に宣言し、おっかけを絶った。
しかし、ものの見事に志望校に落ちた。手紙に「〇〇大に受かったら会いに行きます」と書いてしまったので、なおのこと落ち込んだ。でも、会いたいので、会いに行った。なんと突然の一方的な宣言にも関わらず、推しは私のことを覚えていた。ほんの数回しか会ってないのに。感動のあまり人目もはばからず号泣した。
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それ以降、推しのことを考えると、胸の中でサイダーが弾けるような感覚になった。パチパチとしゅわしゅわの間の優しい感覚だった。もしかしてこれが恋なのかなと疑問に思うと同時に、推しに恋愛感情を抱くなんてという罪悪感が湧いた。
でも、それ以上に罪悪感のある感情があった。「ああいう人がお父さんだったらいいのにな」である。それは当時の私にとっては推しに対しても、実父に対しても、大変失礼なことだった。だから気づかないふりをして、恋愛感情の類だと思うようにして蓋をしていた。
今でこそ実父と縁を切って逃げているものの、当時は「なんか、もしかしたら、うちってやばいかも?」程度の認識だった。ちょうどその頃、実父の精神年齢を私が越してしまい、実父の幼稚さが目につき始めた時期だった。でも、自分の親や生育環境がやばいかもしれないというのは認めるのに非常に抵抗がある。今ですら、もしかして自意識過剰なだけで虐待などされていないのではなかろうかと思うことがあるのだから。私にはお父さんがいるのに、他の人をああいう人がお父さんだったら良いなと思うなんて、お父さんに失礼だという気持ちが当時の私にはあった。
推しは私の親であるような年齢ではないので、お父さんだったら良いのになんて失礼極まりない。そして私は推しのパーソナルな部分は全く知らない。推しが私に見せるのはあくまで推しとしての姿だ。私への優しさもファンとしての私への優しさである。まさに偶像。でも知らないからこそ憧れたのだろう。
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そんな歪曲したなんとも言えない推しへの複雑な感情は、推しの役に立ちたいという衝動につながった。推しの所属する団体が全国レベルで活躍したことがあり、私はそれを地元紙に投稿した。すると見事採用された。それに味を占めた私は遠征の度に遠征先の新聞に投稿するなど、隙あらば文章を書くようになった。新聞投稿は文字数がかなり少ない中で起承転結をつけねばならず、文章力を鍛えるのにもってこいだった。
推しは全国レベルの活躍の際に怪我をし、ほどなくして卒業した。その後の私は、推しがいたジャンルの他の人に対して、どこかに推しの面影を見出して好きになろうとしていた。そのことに気がつき、足を洗った。書くことがなくなって新聞投稿もやめた。
推しは卒業した後、ぽつぽつと、数年単位のたまにレベルで表舞台に立つことがあった。でも供給が少なくなって、気がつけば私の胸の中のサイダーは気が抜けていった。
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先日、数年ぶりに推しを生で見る機会があった。不思議なことに、私は推しのおかげで身につけた文章力で文章を書き始め、かがみよかがみで採用や掲載され始めた時期だった。おっかけをしている際、同じくおっかけをしているおばさんに思い出なんて何になるのと言われて落ち込んだことがある。若いのに何をしているのだというニュアンスでもあったのだろう。でも今なら自信を持って言える、思い出をもらって、それが私の文章力になった。もちろん思い出は思い出だけでも十分尊いのだが。
私の胸の中のサイダーは推しから与えられた優しさに対する化学反応のようなものだったのだろう。今は思い出と文章力になって私の中で生きている。