祖父母の家は、珈琲のにおいがした。
◎ ◎
喫茶店のマスターである祖父とその喫茶店で一緒に働く祖母。
ふたりは珈琲が好きで、毎朝珈琲を飲んでいた。
だから朝起きると、珈琲のにおいに深みがかかっていた。そのにおいが私の冬休みのにおいだった。雪が積もる北国の冬を眺めながら、祖父母の家でのんびりした。3階建ての祖父母の大きな家の中を従兄弟と駆け回ったりもした。
どの部屋にも、珈琲のにおいが漂ってきていた。
祖父母の喫茶店にも同じ珈琲のにおいが漂っていて、私はそこでミルクセーキを頼んでいた。
母や姉たちからは、作るのが面倒くさいものを頼むのはやめなさいと言われたけれど、私は祖父のミルクセーキが好きだった。
祖父は「いいよ。作ってやるよ」と言って作ってくれた。祖父がシェイカーで作るミルクセーキは美味しくて。漂う珈琲のにおいと一緒に飲んだ。
真似て自分で作ってみたこともあったが、どうしたって同じ味にはできなかった。
もう一度あの喫茶店で珈琲のにおいと一緒に飲みたいけれど、それはもう叶わない。
◎ ◎
祖父は今ではもう店を閉めて、あの家も売り払い、アパートに住んでいる。
祖母も亡くなってしまったけれど祖父は毎朝、珈琲を淹れる。
仏壇の祖母に珈琲を供えて、目を合わせている。
仲の良いふたりだった。
ふたりの会話は私には聞こえない。
祖父はお洒落でかっこよくて私にとって理想のおじいちゃんだから、私は会うたびに緊張してしまう。
けれど、不思議なことに、同時になんだかとても落ち着くのだ。
「私のおじいちゃんは喫茶店のマスターなんだ!」
「おじいちゃんとおばあちゃんで喫茶店を営んでいるんだよ!」
子どもの頃はよく友人に自慢していた。
お洒落で落ち着く雰囲気の、素敵な喫茶店だった。お店に入ると祖母が出迎えてくれて、カウンターには祖父が微笑んでいた。
もちろん、珈琲のにおいも一緒に。
今日は何を飲もうか。
わくわくした。
ミルクセーキもココアも大好きだった。
◎ ◎
しかし今ではもう、街の中をいくら探しても似た喫茶店も見つからなければ、祖父母の喫茶店も見つからない。
大人になって、せっかく同じ街に住み始めたのに、喫茶店に通うことは叶わない。
けれど、喫茶店にあったオルゴール付きのコーヒーミルは、今では私の実家にあって、珈琲豆を挽くと、オルゴールの音と共に祖父母の喫茶店のにおいがする。
ロミオとジュリエットの切ないオルゴール。
コーヒーミルと一緒に母に引き取られた食器たちも喫茶店の雰囲気を思い出させてくれる。
ふと思い立って、駅に着いて、ビルの地下に入って、喫茶店の跡地を見に行った。
知らない店舗が入っていた。
居酒屋になっていて、珈琲のかけらもなければ珈琲のにおいもしなかった。
祖父母の喫茶店は、そこにはなかった。
◎ ◎
祖父の家は珈琲のにおいがする。
お洒落で、ちょっぴり緊張して、でも落ち着くにおいだ。
珈琲が飲めない私には、味もわからないけれど祖父の珈琲のにおいはきっといつまでも忘れない。
今度祖父の家に行ったらミルクセーキをお願いしてみようと思う。
あの喫茶店を忘れないために。