生まれてからずっと付き合っていく名字と名前。特に名字は、初対面の方に自己紹介する際に用いることが多い。自分の名字はそんなに珍しくはないけれど、可愛らしいものでもない。ごく普通のどこにでもいる人間、という印象を抱きやすい名字である。
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そんな名字にふさわしい名前。そう両親がフルネームを考え抜いた末に、平和な毎日を生きているような人格を打ち出したされたのだった。
このさき、たとえば結婚すれば今の名字とはお別れすることになるけれど、それもそれで楽しみではある。一人っ子の私にとって名字を受け継いでいく使命感が気づけば生まれていたりもするが、それは先祖からの目に見えたバトンだともいえるのだ。
同じ名字をもつ方と出会ったとき、その人の人柄や人生を知らなくても勝手に親近感を抱いてしまうのは、不思議で面白い。そういえば、高校時代にアオヤマ先生という英語の先生がいて、ブルーマウンテンと生徒からあだ名をつけられていたのを思い出す。たしかに、わかりやすい名字で、なんとも生まれながらにしてセンスがある名字だなあ、と感心してしまうものだ。私もアオヤマ先生のように、山、川、海、といった自然の恵みが名字のなかにあって、それが覚えやすい名字にさせているのかもしれない。
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しかし令和の時代は、夫婦であっても同じ姓で生きないという選択をする人も少なくはない。仕事上の人付き合いで支障が出ないように、あえて結婚しても旧姓のままでいるという決断は、私は悪くはないと思う。むしろ、自分を貫こうとする、意志の表れであって自分を取り囲む他者という社会に流されない、古い価値観に惑わされない意思表示ができる立派な大人に違いない。
いつの日か、「名字、お揃いにしちゃう?」なんていうプロポーズをした男性がテレビ番組で話題になっていたけれど、なんだか名字で幸せを押し付けているみたいで、息苦しさを感じる人もいるのではないか。もちろん結婚することに幸せを見出すことは、幸せになる努力をすることと等しいからこそ、それを否定している訳ではない。だが、大事な人と晴れの日も雨の日も二人三脚で歩いていくなかで、同じ名字でなくても幸せになる権利があることに変わりはないのだ。
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そもそも旧姓という価値を見直せる社会になってほしいとも思えてくる。「旧」とつくだけで、まるで結婚前の人生がなかったことにされるみたいで、よく考えると違和感が漂っているのではないか。結婚後の名字が「現姓」と呼ばれるのだとすれば、それもそれで仮定的で雑に扱われている感じがして、落ち着かない。
それでも結婚して名字が変わるのは女性で、婿さんだと男性が名字を変える。いや、この「変える」という価値観が、そもそも違和感なのかもしれない。嫁ぐということ自体が、ただ名字を変えれば成立するものであるとするならば、それは間違っていると私は疑問に思う。
結婚したことを名字が変わったんです、と自慢する女性が、ひと昔前なら違和感なく受け入れられていたけれど、今は選択的夫婦別姓が定着しているからこそ、そうした定番化していた祝杯の儀が、当たり前ではなくなってきているのではないだろうか。
「名字が変わったんですよ?祝ってくださいよ」みたいな、圧。そんな事象に、この令和の時代では違和感をもつことから始めないと、結婚がもたらす幸せの意味を私たちは、受け流してしまう。
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たかが名字ひとつで、人生は大きく変わる。結婚して新しい名字で生きていく人生、結婚することなく先祖代々のバトンを受け継ぐように、名字を守っていく人生。そして、結婚してからも生まれてからずっと授かってきた名字を守り抜く人生。このほかにも、名字という変えられない価値と、穏やかに付き合っていく選択が、令和では一人ひとりに問われているはずだ。