皆さんはどんな時に「あぁ、なんだかさびしいな」と感じますか?
私は1人でいる時より、誰かと話をしている時にじんわりとさびしさを感じる事が多いかも。
私の中にあるさびしさは、イコール人との心の距離なのかなと思っていて、社会人になり本音を話せる相手が家族を除いて誰1人いない事もさびしさをより強いものにしている。
そんな私は23歳の立派な大人だ。
社会人デビューしてから本音を相手に伝えることで良くも悪くも学ぶ事がたくさんあった。言わなきゃ良かったと後悔し学ぶを繰り返し、早いもので3年が経っていた。
学生時代は、単純な性格で縛られるものもなく自由に人間関係を築いてきた。自分の思った事を頭で考える前に口に出しがちだった私には、素直な気持ちを伝え合える友達が多くはないが確かに存在した。
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しかし、年齢を重ねていくにつれて発言に対して常に責任がついてまわり、皆常識や周りの目を気にし始める。たとえ発言したい内容や起こった出来事に対し考えた事があっても「これは大人として不適切な発言かもしれない」や「これを言ってしまったら後から大変な事になりそうだ」と口の中でストップをかけてしまう。
これを成長と捉えるかは人それぞれだが、言いたいことも言えないようになってしまうのは少しさびしい。
せっかく感じた気持ちも、言葉にして送る過程で頭で審査し口まできてもストップがかかる。自由に伝え合う事こそ、動物の中で言葉を話せるヒトの特権であり話す意味になる気がするのに。
素直な気持ちを言えなくなった関係性では、口の中にある社会人フィルターを通り抜ける事は難しく、結局無難な言葉や微笑みを返す事が多くなってしまう。
成長するにつれて身につけた〝常識〟が私の自由を縛っている。
そして、本音を話す機会が減り、とうとう家族に対してだけとなった。
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かつて仲良かった友人たち、彼らとは会えば昔と変わらない笑顔で会話も盛り上がる。だが、話す気持ちや言葉は果たして本音なのだろうか?
私は3年間で身に馴染んでしまった〝社会人の常識〟が邪魔をして思ってもない世辞が口から出てきてしまうし、逆に相手に対してマイナスな事を考えていても、伝えることによって相手を傷つけてしまうからと心に秘めて笑顔で当たり障りのないトークをする。
友人と本音で話すのを控えると喧嘩や衝突も無くなった。これを良い事と捉えればお互い成長したと言える。しかし、悪く考えてしまうとこれは昔程感情ものっておらず、フィルター越しの中身のない言葉で伝えあっているからかもしれない。
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そんな風に1度でも考えてしまうと、この時間はなんなんだろう?なんて疑問が湧くし学生時代との差違にどうしようも無い虚しさを感じて付き合いは更に浅く、笑顔はぎこちなくなってしまう。
これで悩んだことはありませんなんて人、全人類探してもいないと言える人間関係問題。
無難で丸い回答を心がけていくうち、人間関係は豊かになれど心はどんどん貧しくなった。
気づけば私生活で届くメッセージはどれも当たり障りないものばかり。さびしい、さびしいと言う癖に本音で話す事がない私に皆本音は話さない。当たり前だろう。人は鏡とはよく言ったものだ。
そして繋がりはより希薄になっていった。
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私のさびしさは、社会でみるとなんてことはないもので、皆が抱えているものだ。
そう言い聞かせて、今日も気持ちと向き合う。
人は自分1人では生きていけない。という言葉をどこかで耳にした事があるがまさにその通りで、朝食べている目玉焼き1つとってもニワトリを飼育して卵を出荷する人、卵を梱包する人、店まで届ける人、店で販売する人、たくさんの人・人・人で繋がって今手元にある。社会と繋がっているし、人と繋がっている。
しかし、フィルター無く話せるそんな人を探してみてもおらず、損得なしに笑顔でいられる時間は限りなく少ないのだ。
社会人としての振る舞いも大切だが、もう少し本音を言いやすい世の中であれと思ってしまう。
私も勇気を出して言いたいことを言い合える関係性を作り、さびしさに打ち勝ちたい。
本音が聞けない今の関係性はまさに孤独でさびしさそのものなのだから。