名字について考えるとき、私は日本をあきらめたくなる。
以前、『冗談で言った「ジャンケンで名字を決めよう」。彼の顔が物語っていた』というエッセイを書いた。私は選択的夫婦別姓を望んでいる。進まない議論と、情けないほどの感情論。変わらない世の中に、呆れている。
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どうしてここまで議論が進まないのか、理由を調べてみたことがある。主な理由として挙げられたのは、子どもへの影響と、家族観が変わることへの懸念だった。後者は放っておくとして、子どもへの影響はある程度理解できる。
勝手な推測だが、選択的夫婦別姓が導入されたら、子どもたちの多くが、一旦は夫の名字を名乗るのではないだろうか。私も、同棲していた家やライフラインの契約など、クソどうでもいいことに関してはパートナー名義であることを気に留めずにいた。子どもの名字に関しても、なんとなく世帯主っぽさが残る夫名義が多いのではという推測だ。
その場合に、例えば母親の名字を名乗る子が周囲との違いに違和感を覚えたり、離婚時に余計なストレスを抱える可能性があったりするだろう。リスクが1つもない訳はない。
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発見があったのは、検索窓に「選択的夫婦別姓 反対意見」と入力し、検索しようとしたときのこと。「選択的夫婦別姓」まで入力したところで、検索候補に「選択的夫婦別姓 なぜこだわる」「選択的夫婦別姓 くだらない」というワードが表示されたのだ。
喧嘩腰な言葉はあったけれど、「敵だと思っていたキャラが味方だった」みたいな、不思議な感覚を覚えた。異なる意見を持つ対岸の人たちも、この問題についてこちらが何を考えているのか、少しでも歩み寄ろうとしてくれているのではないかと希望を感じてしまったのだ。
相手の言葉に耳を傾ける。小学校で教わったことを律儀に守っている人が検索候補になるくらいいるのに、どうしてこのトピックはいつまでもトレンドから消えないのだろう。早く、過去のことになってくれないんだろう。
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きっと、最後は私が折れるのだと思う。男女とか名字の珍しさとかは関係なしに、「相手に苦痛を味わわせたいわけではない」という理由で。
そうして、まだ予定もない私の娘が結婚する頃にも、同じ議論をしているのだろう。もう数十年議論が重ねられている。愛する我が子が同じように悔し涙を流すのならば、私は、日本という国を、政治や民主主義を信じていられないと思う。
校則に疑問を覚えたことはあっても、国のルールに疑問を覚えたことなど一度もなかった。人生を根本から否定されたら、心に1本突っ立っていた芯がグラグラと揺れ、理屈の通らないことを言い始めてもおかしくない。そうでもしないと、こんな世界を直視していられない。