文化芸術の紛れもない真実を生み出す力を信じて、私は今日も踊る

この秋から参加している、公共文化施設の市民参加型ダンスプロジェクトの年内最後の創作会が先日行われた。クリエーションの後、お菓子を食べながら、改めて参加者の方々といろいろ話した。いままで身体の非言語コミュニケーションが中心だったので、やっと言葉で話し始めた感じだ。いかにもダンスプロジェクトらしい!
順番に一人ずつ、改めて自己紹介と今後の抱負のようなことを言うことになり、私の番が回ってきた。本当に何も言うことが思い浮かばなかった。しばらく「うーん、うーん……」と考えた後、つい、「なんもねえ……。なんもねえを何もありにしたいと思います!」というのが無意識に口から出てきてしまった!!
「なんもねえ」の裏にある想いをあとから意識的に言語化してみると、ここ数か月で私のダンスへの愛のかたちが変化してきたことにあると思う。具体的には、以前「20代でしたいこと」のテーマで、私はダンスの専門性を高めたいと書いたが、わざわざダンスの専門性を高めよう!と意気込まなくてもいいんじゃないか、と身体の力が抜けてきたのだった。
SNSの普及のおかげか(またはそのせいか)、私の周りにはいろいろな肩書を名乗る人がいる。飲食店経営者、起業家、目的をもって海外に放浪している人々、アナウンサーなど。「何者か」であると自ら語る友人や学生時代の同期と自分を無意識に比較して、じゃあ自分は何者なんだろうと考えたときに、やはりダンスの専門性を高めよう!とガッツいている部分があった。
しかし私の言うダンスとは、以前も述べたが主に「コミュニケーションそのもの」を指す。それは肩書にまとめづらい。かたちのない、日々絶え間なく変化していくものだと思うからだ。
今回のダンスプロジェクトで公共文化施設に足を運んで、アーティストたちのクリエーションの過程に当事者として入り込み、隣向かいにプロのアーティストがいる中で、様々な動き(この日は皆でユニゾンをやってみた)をしてみての感想を直接しゃべっていること、その行為自体が、何とも言えず(なんもねえ)、ただただ嬉しかったのである。私はこれまでのどんなコミュニティーでも集団の端にいつもいた。自分は何者でもないから、このコミュニティーの人々と分かりあえっこないんだと、どこかあきらめていた。私の愛しはじめたダンスとは、何者でもないけど、いま現在、こうして他者とのかかわりの中に自分は存在していると、特に意識できる芸術ではないかと“何者でもない”私は思う。「健康で文化的な生活」という憲法にある言葉を、いまこの瞬間、税金で成り立つ公共文化施設で果たせているんだ!私!という確かな深みを感じる。
2024年当初、私が地元に戻ってきたのは、文化施設職員としてゆくゆくはダンス系の企画の仕事に携われたらいいな、という隠れた思いからだったが、その思いは業界のシステムと、私の事務能力の無能さにより完全に崩壊した。振り返れば職員試験を受けた如月のあの日の夜、池袋の公共劇場で映画『へんしんっ!』の上映会に参加できたことは、事務ではなく、ダンスにかかわりなさいという自然のなりゆきだったのかもしれないと、ちゃっかり思い込む。
いまこの文章を書いている年末、よくよく考えたら生計を立てる仕事として公共文化施設にかかわらなければいけないわけじゃない、と思う。自分に向いていること、好きなこと、愛すべき瞬間をもっともっと増やしていく手段として、私はダンスにかかわっていきたい。人生には楽しいことより苦しいことの方が多いだろうけれども、私は楽しさの拡張に尽力するのではなく、苦しさを文化芸術に委ね、劇場という公共圏をはじめ生活の中にダンスを見出し、シンプルに愛し続けていきたい。文化芸術にある、ごまかしの利かない、紛れもない真実を生み出す力を信じて、私は今日も踊る。
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