謙遜ばかりの私に訪れた転機。発する言葉には可能性が秘められている

私が中学2年生の頃は、今までの人生の中で一番“病んでいた”時期であった。
中高6年間女子校に通っていた私は、同級生や先輩・後輩の個性豊かな性格とポジティブな考え方に、多少の劣等感と気持ち悪さを抱いていた。
周りのクラスメイトは1つの失敗に対しても笑ってごまかしたり、「次がある」と挑戦の言葉を口にした。また、私のクラスではいつも「可愛い」という言葉が飛び交っていた。新しい筆箱、髪型、インスタの投稿。すべての事柄に対して「可愛い」が飛び交っていて、それを向けられた当事者は決まって必ず「ありがとう」「だよね」と、感謝と共感を口にした。
その一方、時に私がその当事者になることがあった。そんな時は決まって「そんなことないよ」「そんなそんな」と謙遜をした。私より明らかに「可愛い」が似合う彼女らを気遣うように、思ってもいないDiorの新作ポーチに対して「可愛いね」と作り笑顔で返していた。
当時、私は可愛いをもらって素直に受け入れることができず、なんならその素直に受け入れる彼女らに対して、気味の悪さを感じていた。なぜ、そんなに自己肯定感が高いのか。なぜそこまでしてお互いを褒め合うのか。謙遜し相手を立てることこそが日本人女性の本物の美しさなのではないか。14歳の私は、そんなことばかりを気にして、学校生活を送っていた。
そんな私に転機が訪れたのは中学3年生での新たな出会いであった。
いつも一緒にお弁当を食べていた友人は、ネガティブで口を開けば人に対する妬みや嫉み、彼女自身の損得で話をしていた。肯定botの私は、常に彼女の機嫌を保つのに精一杯であった。
しかし、3年生になってから彼女とクラスの中で話さなくなった。その代わりに、3人の友人とお弁当を食べるようになった。1人は超ポジティブで笑顔が素敵なチア女子。もう1人は吹奏楽部のサバサバ系女子。最後の1人は笑いのツボが人とは異なる理系女子。
どんな形で意気投合したのか忘れてしまったが、気が付いたら一緒にお弁当を食べる仲になっていた。最初の方は以前と変わることなく、「いいね」「可愛い」「そうだよねわかる」と、肯定bot剥き出しで会話をし、自分のターンにまわってこようものならば、「いや、でも○○の方が凄いよ」と、相手が自分より上機嫌になるような会話をしていた。私にとってこの立ち振る舞いは普通であった。何も違和感を感じなかった。しかし、そんな私に対して3人はこう言い放った。
「なんでそんなに自分を否定するの。あなたはあなたが思うより素敵な人だし、私たちには持ってない特技やいいところがある。そんなに自分のことを否定しないでいいんだよ」
こんなことを人生で言われたのは初めてだった。自分自身を否定していた実感はなかったが、確かに謙遜が自身を非難していたと考えるとそうかもしれない。私自身を大切にしてくれる友人を悲しませたくない。そんなことを考え、次の日からポジティブなクラスメイトの会話を端から端まで観察することにした。すると、みんな共通して1つの言葉を使っていることに気が付いた。
『ありがとう』
どんな会話がなされたとしても、彼女たちは必ず感謝の言葉を口にし、相手に対しても感謝の言葉で返していた。
それに気が付いた時、私も実践してみれば変われるかもしれないと感じ、それ以降自分を褒めてくれる対象者に対して「ありがとう」を返すことを心がけた。
何なら、本当に自分を変えたかったから、友人である3人に「私がネガティブな言葉を使っていたら会話を遮ってでもいいから注意してほしい」とお願いし、どんなに会話が盛り上がっていたとしても、「はい!今ネガティブポイントね!」と指摘をくれるようになった。
そのおかげもあって、彼女らに出会った3年生から高校を卒業するまでの期間で、私は周囲が驚くほどにポジティブになった。大学では陽キャと呼ばれるほどになり、大学からの友人には、過去の話をすると「想像ができない」と驚かれる。
誰しも、自身の自己肯定感に苛まれ、人生最大の“病み期”を抱えるであろう。自分自身の存在意義や周囲への劣等感で苦しくなることもある。しかし、そんな悩みを抱える人は、口から発する言葉をポジティブなものに変えてみてほしい。それを継続することで、これから先の人生が大きく変わる可能性を秘めていると私は確信している。
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