「幼稚園は暇だ」その言葉に秘められた幼い私の傲慢でタチの悪い欲求
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いつだって元気でアクティブな同世代のヤングが羨ましいが、そこで特段何かアクションを起こすわけでもない。記憶を遡ること二十数年前、私はよく幼稚園から帰って来て「幼稚園は暇だ」「退屈すぎる」というようなことを母に言って困らせていた。
今思えばあれは本当に暇だったのではなく、自分のやるべきことや楽しいことを能動的に探すのが苦手ですべて誰かに繕ってほしかったからなのだと思う。「受動型なので」と言い訳をさせてほしいが、それにしてもしっかり意見や欲を持っているのだからタチが悪いと思う。
幼稚園に入る前からずっとテレビ漬けで過ごしてきて、教育テレビにはいつも今いる環境には絶対にいないような、自分とは月とスッポンの同世代の子供が出演していた。
あの中に出ている子供と自分は何が違うのだろうとぼんやりと思いながら、ブラウン管テレビに釘付けになっていた。
「おかあさんと一緒」や「いないいないばあ」で、お兄さんお姉さん、ワンワンの至近距離で可愛い衣装を着させられながら群衆と化した子供たちを見て、言葉にできないような憧れと、「あれなら自分にもきっとできるだろう」というひどく傲慢な感情が幼心に渦巻いていた気がする。
多くの人にとって平和で楽しいはずの幼稚園は私にとって、ある種戦場のようなものだった。違う組の女の子同士が組をまたいで人形を投げ合ってバチバチにバトルする様子を目撃したり、先生が少食の外国出身の男の子に無理やり完食を強いたり、私が二人組を組んで遊んでいた女の子を横取りする女の子が現れたりした。
クラスメイトからのマウンティングも結構日常茶飯事だったと記憶している。
「プリキュアをこの年になって好きなんて、子供だよ」
「今はみんなこっちのアニメが好きなんだよ」
そう言われた私は大好きな「二人はプリキュア」を嫌いになろうか迷ったが、結局小学校二年生くらいまで好きで、上記の二人組を組んでいた友達とごっこ遊びをしていた。今ならお前も子供だろと、生温かい目で見てあげられるのだが……。
私はよく優しいと言われるが、それは無意味な善良さに他ならないと思う。先日辻村深月さんの「傲慢と善良」という小説を読んで、それを深く思い知ったのだった。自分のことを丸裸にされているようで、肌の表面を包丁で削ぐか削がないかのせめぎ合いをされているかのような悶絶を感じた。途中の描写は現代日本女性の中には共感を覚える人が多いと思う。
言われてもその場で他者に言い返せず、家で母に泣き言をこぼすというのび太のような人間だった。今でもその性質は変わらず、やはり三つ子の魂百までとはよく言ったものだと思う。気性が無駄に優しくてもそれで何か得をするのかと言われたら、損の方が多かった気がする。それに傲慢な部分も少なからずある。損得勘定で物事を考えるのはよくないと思うけれど、大人になるとそれも大事なんだなと思う。子供の頃からそのあたりに聡い人はいわゆる「成功者」になるのだろう。
人間社会では、かくして傲慢で無神経でEQの低めなグループの人々がいい思いをするシステムになっているなと感じることが多い。
昔は釘付けになって見ていたテレビも、容姿・学歴・煽動・勝負・グルメのオンパレードで精神衛生上良くないと思い、今は全くと言っていいほど見ていない。「出ている人はそりゃあ楽しいんでしょうけど……」という内輪ノリみたいなのも前は楽しめていたが、歳をとるにつれて不要だなと思うようになった。報道番組と子供向け番組だけでいいんじゃないかとすら思う。
今生活していても退屈だなと感じる時は大抵自分の承認欲求が満たされていない時だ。
そういう時は公募サイトを見て文章や俳句を応募する。
2025年に入ってから俳句が二句入選したので、新年早々少し満たされた。
肉体や顔面や持っているモノに価値を見出して承認を満たすことに若いうちから慣れてしまうと危険なので、こんな時代とはいえ、それ以外のやり方をおすすめする。
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