対話のテーブルにつき続けることを誓う。これは逃げ癖への挑戦状だ
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「ここが正念場だ!」と叫びたくなるような瞬間がある。
それは、テスト前夜だったり、もうなんだか全部あきらめて放り投げてしまいたいどん底だったり、信じられないくらい綺麗な朝だったりする。試験会場の窓から外の景色を眺めたときだったり、実習のユニフォームに袖を通したときだったり、いつまで経っても調べ物が終わらない夜中1時だったりもする。
2025年は、間違いなく正念場である。それも、ずーっと踏ん張らないとダメなタイプの。
2025年から、生活のメインが新しい環境になった。ここ数年、生活のサブはたくさん新しいことをしてきたのだけれどメインが変わることは久々で、慣れないことだらけだからか密度は濃いのになかなか時間が経たず、1週間が長い。その長く感じる時間の中でたくさんの新しいひとと出会っている。
2024年もたくさんのひとと会い、話をした。その場限りのご縁ももちろんあるのだけれど、ほとんどは続けられた。
ただ、今考えると、なんとなく「合わないかも」と思ったひととは自分から距離を置き、線を引いていた。出会うひとや関わるひとを増やすということは、それだけ合わないひとにぶち当たる回数も増えるということなのかもしれないけれど、離れられるものはあっさり離れれば良いと考えて折り合いをつけていた。
サブの環境でばかり新しいひとと出会っていたというのもあって、特に生活に支障が出ることもなく過ごせていた。離れても生活の大部分は変わらず、それで失ったものもあったかもしれないけれど、目を瞑ってしまえる範囲内だったと思う。20数年かけて身についた逃げ癖は簡単にはなくせないから、都合よく捉えていた。
しかし今年は去年までのようにはいかないようで、今までの人生でやってきた「この人とは合わなそうだからゆるく離れよう」の「ゆるく離れる」を、「対話する」とか「すり合わせする」にしないといけないようだ。
いつまでも逃げてはいられないのはわかっているし、これが大人になるということなのだろうとも思う。同じテーブルについて話をして、考えをシェアして、どうにかうまい折り合いをつけて、関係をあきらめずつづけていく。面倒くさがらず、サボらず、きちんと苦労をして向き合うことが、今のわたしには必要なのだと思う。
わたしが対話のテーブルにつこうとするにはエネルギーが必要で、ハードルを飛び越えるみたいなきもちの助走がいる。わたしにとってはこの助走の段階から正念場だ。
「根本から価値観を否定されるんじゃないか」「対話の体をなさなかったらどうしよう」みたいなきもちを取り除けないから、跳ぶのが怖い。この恐怖に追い詰められるように「ここが正念場だ!」と叫びたくなる。
でも、対話のテーブルにつかないということはその人との関係をあきらめるということに限りなく近いと思う。いつまでも「離れる」という言葉に逃げてはいられない。
だから、「えいや!」と部屋に飛び込んで椅子に座るところまで一息に済ませたい。そうして相手の顔を見たらもう逃げられないって覚悟が決まると思うから。
2025年、対話のテーブルにつきつづけることを誓う。これは、わたしの逃げ癖への挑戦状だ。
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