お守りみたいに背中を押してくれる、彼女がくれた「かわいい」の魔法

高校生のころ、仲のいい女友達がいた。
たいそうな美人さんで黙っていれば花もはじらう美少女だったけれど、振る舞いがものすごく男前だったのでとにかく女子にモテた。女子校にひとりはいる、バレンタインにチョコを総取りするタイプの女子である。
元々シャイでクラスに馴染めていなかった彼女に私が声をかけたのがきっかけで仲良くなった。だけど気づけば彼女の周りにはいつだって誰かがいた。友だちが少ない私は、彼女を取られてしまうんじゃないかと気が気ではなかったのをよく覚えている。
彼女と私は良くも悪くも正反対だった。
きれいな彼女と、ぱっとしない私。
ユーモアのある彼女と、つまらない私。
穏やかな彼女と、短気な私。
運動ができてかっこいい彼女と、どんくさくてみっともない私。
誰にでも優しい彼女と、彼女と仲のいい子に嫉妬してしまう醜い私。
彼女はシャイだからなかなかみんなが気づかなかっただけで、とても魅力的で人に好かれる子だった。一方の私は元々の卑屈な性格と、ことあるごとにまとめ役にされてしまう立場のせいで嫌われることが多かった。しかもそんな立場にいるくせにできることなんてあんまりなくて、有名無実な自分が嫌で嫌でしかたなかった。
だからきっと彼女に友だちができたら私はいらなくなってしまうと、そのことにずっと怯えていた。
それでも、どんなに友だちに囲まれていても、彼女は絶対に私に気づいてくれた。離れた場所にいる私を呼んでくれて、部活がない日は絶対に一緒に帰ってくれた。
いろんな話をしたけれど、彼女はよく私に「かわいい」と言った。冒頭でも書いたけれど彼女はたいそうな美人さんだったので、嫌味か、と思ったものだった。「かわいい」だなんて、容姿にも性格にも当てはまる部分のない私にはどうしてもむず痒くて。
けれど彼女は懲りずに私に「かわいい」と言う。小さな失敗の話を聞いて「かわいい」、目の前の小さな段差に躓く私に「かわいい」、ちょっと髪型を変えたら「かわいい」。それをお世辞でもなんでもなく、息を吐くように言うものだから、私は耳まで真っ赤になって「もういいから!」と彼女の肩を引っ叩くのだ。それさえ笑って「照れてかわいい」と。こいつ、男の子だったら相当のたらしだぞと思った。
けれどあの頃から、私は自分に対してあまり卑屈にならなくなった。ちょっとの失敗はご愛嬌。花もはじらう美人には程遠いけれど、鏡に映る私の顔は案外悪くなかった。そう思ったら背筋が伸びた。心のどこかで諦めていたおしゃれも楽しめるようになった。俯きがちだった顔が前を向けるようになって、ほんの少し呼吸がしやすくなった。
当時の写真を見返すと、その頃から明らかに顔色がよくなっているのがわかる。笑って映っている写真が増えて、いろんなことに挑戦し始めたのもこの頃だ。
決定的な出来事があったわけではない。じゃあ何が私を変えたのかと言われたら、たぶんそれは彼女だ。彼女がことあるごとに私に言っていた「かわいい」は、言葉通りの褒め言葉というよりも、そのままの私を認めてくれる言葉だったのだと思う。私が嫌いだった"私"を、情けないところもみっともないところも含めて「かわいい」と言ってくれた。それがいつのまにか私の中に染み込んで、お守りみたいに私の背中を押してくれているのだ。
彼女は自信がなくて俯いてばかりだった私に「かわいい」の魔法をかけてくれた。
いま彼女はどうしているだろうか。
大学で進路が分かれてからしばらくは連絡を取っていたけれど、もう何年も会っていない。会いたいなと思うし、連絡してみようかなとも思うけれど、なんだかあの時の思い出をそのまま取っておきたくてSNSの送信ボタンを押せないでいる。
かわりに私は鏡を見て心の中で呟く。今日も悪くない。かわいいなんて上等な言葉は私には似合わないけれど、彼女が私にかけた魔法が、私に自分を認める力をくれた。
彼女と幾度となく歩いた青い空の下で、今だから言えることがある。
あれは、私の初恋だった。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。