自由に人生を選択するために必要な努力がある。もう後悔はしたくない

私は2025年を、後悔のないよう、努力したと言える1年にすることを誓う。何を努力するのか、具体的には就職活動である。
「記者になりたい」
こう思うようになったのは、割と最近。大学の授業のゲストスピーカーが、あるテレビ局の海外特派員の方たちだった。「自分の興味のある所に会社のお金を使って取材に行ける。こんないい仕事はない」と繰り返しおっしゃっていたのが印象的だった。
普段だったら、最後に質問の時間が設けられても、自分から質問するようなタイプじゃない。なのに、特派員の方たちへの質問時間では、2回も質問してしまった。
高校生の時、勉強が嫌いな自分に気づいてしまった。憧れだけで無理して入った高校。コロナで始まった高校生活。オンライン授業で、先生が古文の意味不明な助動詞をダラダラと唱えていた。覚えておくよう言われたが、どうせオンライン授業だし、誰も覚えて来ないだろうと思っていた。だが、いざ対面授業が始まった時、周りの席の子みんな覚えていた。
みんな、勉強は嫌いだと言っておきながら、きちんとテスト勉強はする。しかも全然やっていないとか言うのに、私より点数は当たり前にいいのだ。
勉強がどんなに嫌いでも、大学受験は嫌でもやってくる。
私は、やりたくないことはやりたくない。好きなことだけをして生きていきたい。ネームバリューや将来に役立つかどうかで決める大学・学部選びは一切していない。5教科全て大嫌いな私は学部選びはかなり困った。選択肢が全然ないのだ。
なので、自分が好きなものを自問自答してみた。漫画、アニメ、ドラマ、映画。これら全ては明らかに娯楽で、受験生の敵である。だが、共通しているのは「メディア」であるということ。なので、本当に選択肢がなかったが、メディアについて学べる大学をいくつか受験した。
第一志望の公立大学前期は不合格だった。当たり前だ。全然勉強していないからだ。
初めて後悔したのは、国立大学後期の受験前日、ホテルの部屋だった。どこの大学に行こうが、関係ない。これは今でも思っている。だが、人生を自由に選択するには嫌いなことに対する努力も必要なのだ。これに気づくのが遅すぎた。なんで1年生の頃から勉強を頑張れなかったのか。合格不合格に限らず、たとえ勉強が大嫌いだったとしても、なぜやらなったのか。理想だけを追いかけて、未来の自分ばかりに期待して、結局何にもしていない。
私は私が嫌いだ。少しの努力もできない。テストのたびに現実逃避をして、「次のテストで」と自分に期待する。この繰り返しだった。結局後期に受けた国立大学も落ちて、滑り止めの私立大学に入学することになった。
この後悔は受験から2年経つ今でも絶対に忘れることはない。だからこそ、今の自分があるのだ。
私は、私のことを1番よく知っている。自己肯定感が低く、人とよく比べてしまう。人より苦手なことも多い。
だが、人と比べてしまう性格だからこそ気づいた自分もある。人よりニュースをよく読むこと、人より感受性が豊かなこと。人より飽き性なこと。人より人が経験してきたこと、人が考えていることに興味があること。
あの授業で、こんな自分にもあった職業を見つけられた気がする。
「記者」という仕事は、色んな人に取材をするために色んな場所に行ける。飽き性で人のことに興味がある私にぴったりだ。
私が海外特派員の方たちにした2つ目の質問。それは「SNSが普及した現代、見るニュース、情報を受ける側が選択できる時代に、いま必要な記事を見ない人がいることをどう思うか」ということ。
そしたら忘れられない言葉が返ってきた。「記者の仕事は、砂漠に水を撒くようなこと。けれどいつか花が咲く。いつか自分の取材したことを見て、それを覚えてくれていた人が、社会が変わるきっかけを作ってくれるかもしれない」
この言葉を聴いた瞬間、「記者になりたい」と強く思った。
もう一度言う。2025年を記者になるために努力する1年にすることを誓う。大学受験のような後悔は絶対しない。
そして、就活の結果がどうであれ、努力できた自分が好きな自分になりたい。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。