まだまだ子供で雪が大好きだった私へ。

当時、団地に住んでいた小学生の頃の私に少し大人になった私の話をきいてほしい。

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雪を見ると、ワクワクする。
テレビから聞こえてくる雪のニュースに長靴、帽子、マフラー、耳あて、手袋、ホッカイロと次々に防寒具を準備していく。
全て身につけて外に出ると、ツンとした空気に真っ白な空。手袋を外し上を見ると、ちらちらと落ちて手のひらでじゅわっと溶けて無くなる結晶。

思い出すのは、そんな儚い雪の真っ白な記憶だ。

1粒1粒は儚いのに時間をかけてずんずん積もり周りを喜び困らせる、そんな雪の在り方が非常に気に入っていた。
なんだか、ちょっと懐かしい気分だ。

前日に雪予報が出されると、よく、学校から親へ翌日が休校になる旨のメールが届いた。
雪がどれくらい積もるかとテレビに齧り付いている私に、母親が伝える「明日学校休みになったよ」という魔法の言葉。
それを聞く度に胸を躍らせ飛び跳ねて喜んだ事を覚えている。

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私が通っていた小学校では、今のようにスマホなんて無かったので、親のガラケーを借りて友人と連絡を取るか直接相手の家に行きピンポンを鳴らし話す事が普通だった。
団地という事もあり、すぐ近くにたくさん友人が住んでいた為、雪が降る度に家に突撃し友人達の腕を引っ張って外に連れ出し大きな雪だるまを作って遊んだ事を思い出す。

みんなで作った大きな雪だるまは、私にとって〝特別〟であった。
休校という特別な日に、なかなか降らない雪という特別な素材で協力して作品を作る。
さながらアーティストにでもなったかの様だ。
指が真っ赤になっても気にならないくらいの高揚感と喜びがあったのだ。

完成した後は決まって親を呼び出し各々雪だるまの周りで写真撮影をし「また明日学校で遊ぼーね」と手を振り解散していく。
この時間が大好きだった。

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今思えば、雪の遊び方は様々で雪合戦やかまくら作りなど他の選択肢もあったのに私の中では雪の思い出作りといえば、大きな雪だるま作り一択であった。
友人達も毎度よく付き合ってくれたものである。

しかし、年々温暖化の影響か雪が降ることが減ってきたように思う。
雪玉を作り転がして遊んだ過去のように、遊べるだけの雪が最後に降ったのはいつだったか。
もう思い出せない自分がいる。少し、寂しい。

引越しや就職に伴い友人たちとも離れ集まる機会も減った。そして、雪に触れる機会も減った。
騒がしかった私も大人になり、雪の楽しさだけでなく恐ろしさも知った。
社会人になった私には〝休校〟なんて特別な休みは無い。あるのは、〝有給〟という大人ズル休みのみだ。

しかし、有給は当日にとることなんて出来ないし雪遊びするので今日休みますなんて前代未聞の社会人である。
結局休みは取れず仕事に行くのだが、これがまた恐ろしい。
少量の積雪で、翌日路面が凍結し車のタイヤがツツーと滑るのだ。
幸い、職場まで数分の距離だったため事故を起こすことは無かったが大変ヒヤリとしたものだ。
小学生時代、雪が降ってバカ喜びしていた自分に大人は大変だよと教えてあげたいものである。

そんなこんなで、雪との接触が減り、車出勤で若干怖い思いもしたせいで私の雪への好感度は低めとなってしまった。
働いてクタクタの身体で20時過ぎから「さぁ!雪遊びだみんな!」と声をかける勇気も体力も無ければそれで集まってくれる猛者たちもいない。
過去の私からしたら、悲しい限りであろう。
大好きな雪。子供を喜ばせ、大人を困らせる雪。

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今回のエッセイテーマを見かけていなかったら、雪についてこんなに真剣に考えた事は今まで無かったかもしれない。
この機会に感謝し、雪への認識を少しだけ変えていけたらと思った。
雪は自然から、私たちへのプレゼントでゲームやスマホでは感じられないような特別な気持ちをもらえる。
大人になり学んだ事も多いが、かつて好んでいた雪に苦手意識を持つようになり失われた感性をやや残念に思うが自分の好きだったものともう一度向き合ってみたいと思った。

だって、仕事で疲れてるから。
だって、遊ぶ相手がいないから。
車が滑って怖いし、そもそも雪が降らないじゃない!なんて理由をつけて避けていただけなのかも?

幼い私が、あんなに愛して、特別を感じていたものを今の私が嫌だと思う事はないのだろうから。
そうだよね?

だってばかりの大人になった私より。