今の年収に満足している人など、存在するのだろうか。どんな人も多かれ少なかれ、「評価以上の仕事をしているのに」と思っているだろう。少なくとも私はそう思うが、その「評価」とやらを正確に認識し、自分を1歩引いたところから判断できているわけではない。あやふやなブラックボックスのなかで、年次だけが確実に積み上がっていく。

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止まらない渇望を落ち着かせる理由はいくつか浮かぶ。私が働いてきた会社には、目に見えて嫌な奴や、常識が通用しないような型破り社員はいなかった。みんな、話が通じるし、それらは法に則っている。優しすぎると感じるほどに。

それでも、まだ働き始めて5年目、5歳の子どものように1年が長く感じている身からすると、勤続年数に応じて給与が数ミリずつ上がる昇給システムは、雀の涙ほどの恩恵しか感じられない。どうせ天引きされて無に等しくなり、1年かけてあがる額はたかが知れている。

年収が1千万でも10億でも、同じように感じるのではないだろうか。例えば、大谷翔平にとっての野球を手にしない限り。

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働くことを、お金を得る活動と割り切るか、生きがいを得る活動と捉えるか。目の前で道が2つに分かれている。

前者と捉えて生きるなら、こんな道を選ぶだろう。できる限りの大企業に転職して、住宅手当やら福利厚生を一身に受けて、夏冬3か月分ずつのボーナスをもらって、基本給は今と変わらなくても、それだけで年収がだいぶアップしちゃったりして。そのまま産休に突入すれば、休業中にもらえるお金だって増える。長い目で考えるときっと賢くなんてない、机上の理想のルートに、現実はどこまで伴うのだろう。

一方で、後者の生きがいを得る活動を選んで生きていくのならば。昨年はじめたZINE制作は、自分の感性だけを頼りに、心からよいと思うものを制作・販売しているので、当たり前に楽しくてしかたがない。お風呂に入り、夕飯を食べ、さあゴロゴロするぞ!という瞬間にPCの前にとんぼ返りする生活でさえ、まったく苦にならないのだ。

「それは趣味だからでしょ」と言われてしまえばそこまでだが、世の中にある仕事のなかで自分にとってのストレスが比較的小さく、やりがいが大きい仕事につけばいいとされる風潮を鑑みても、これが仕事になったらどんなにいいだろうと夢想してしまう。きっと、自分1人にすべての裁量権があることなら、なんだって楽しいのだ。

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私にとっての、野球を見つけたい。間違いなく、書くことや、発信することや、誰かの琴線を震わせることのそばにあると確信している。今目の前にあるとも感じるし、まだ出会えていないとも感じる不思議な存在だ。

目の前の仕事をひとつずつ手に取り、箱に仕舞っていく。クローズアップすると単調で何の変哲もない日常が、カメラを引いてみた時、明るい方角を示してくれているのだと信じている。いつの日か、こんな仕事がしたかったと泣ける日を心待ちにしている。