私の、今だから言えること。それは、「本が読めなくなり、本屋や図書館に行くことすらも苦痛になった時期がある」ことだ。
2025年1月7日にかがみよかがみに掲載された、『「本」という物体そのものが好きだ!ページをめくる動作に魅了される』という私のエッセイがある。それを読んでいただければ、私が読書はもちろん、本という物体が好きであることがわかると思う。

そんな私が、本が読めなくなり、本に囲まれた聖地のはずの本屋や図書館に行けなくなった。信じられないかもしれないが、私の体験談を聞いてほしい。

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まず、前提として、私はエッセイを書くほかにも、短歌や俳句をつくる活動をしている。なかでも短歌の活動を積極的に行い、短歌ユニットを組んだり、そのユニットで同人誌を販売したりしている。いつかは、エッセイなども含めた文筆活動で、それなりの収入が得られたらと、思っている。
私が、本を読めなくなった理由は、もちろんその時期のストレスだったり、体調だったりも関係しているが、私が思ういちばんの理由は、「自分が読んでいる本を書いている人への嫉妬心」だった。この人は、商業出版できるほどの実力があってうらやましい。そんな気持ちが、私が本を読むことを苦痛へと変貌させたのだ。

醜い理由だということはわかっている。だが、私はこの気持ちと現実のはざまで迷い続けた。なぜならば、本を読み、他の人の作品から技術を吸収することが、成長の一歩になると信じていたからだ。他の人の作品を読むことは、私にとって必要なことだとわかっていた。本を読むことも、本から距離を置くことも、どちらも苦痛だった。

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本屋や図書館に行けなくなった理由も、ほとんど同じ。本棚に入ったたくさんの本が、成功を収めた人間の集まりに見えてしまっていたのだ。この人たちと自分は、実力が全然違う。
そう思い、自分で自分を責めて、葛藤し続けた。本屋や図書館で泣きそうになったこともある。

本が読めなくなってしまった私は、元に戻りたいと願っていた。なぜなら、まだまだ私は成長する必要があったから。少しでも本を読み、成長しなければならない。ここで停滞してはいられない。

あれから半年ほど経ち、今の私は、本を読むことを再び楽しめている。
私は、本が読めなくなってしまうほど、文筆活動に本気になっているとわかったからだ。苦しめられているということは、それだけ本気になれている証拠だと、私は解釈した。
歴史に名を残すとまではいかなくて良い。ただ、私は自分の作品を少しでも多くの人に見てもらいたいのだ。

傲慢だとか、自分勝手だとか、この際気にしていられない。自分の気持ちを尊重し、本気で向き合っていくしかないのだ。もはや、文筆活動に取り憑かれているといっても良いだろう。

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前述した嫉妬心や、本屋や図書館に行くと苦しくなることは、完全になくなったわけではない。代償、というと聞こえは悪いが、私がいかに文筆活動に本気なのかわかった経験だった。

大好きな本が読めなくなった、とても苦しい経験も、今の私にとっては必要だったのだろう。その経験のおかげで、今はやりたいと思う活動を思いっきりやることができている。

生きているなかで、想定外の経験をすることもあるだろう。ただ、自分にとって不要な経験など、どこにもないことがこの経験を通じてわかった。これからも、様々な感覚を噛みしめて、生きていきたいと思う。