絶望の淵に立った夏の日。バラバラになったピースを拾い集めた日々

好きなことを仕事にしたが故に、つまずいたときに逃げたり、すがったりすることができる「好きなこと」がなかった私は、慌ただしい毎日の中で、知らず知らずどんどん孤独になった。
気がついたときには、私という人間を、生活を構成するあらゆるものが、ばらばらになっていた。
起きる時間、好きな食べ物、お風呂で身体のどこから洗い始めるか、靴を履くときはどちらから履くか。ひとつひとつは小さくて、取るに足らないほどの事柄たち。何もかもが、手のひらからこぼれ落ちて、私は立てなくなっていた。
今思えば多少、そうなる前もおかしなところはあったかもしれない。
食欲のあるときとないときの差が極端で、2食分以上の量を一気に食べたかと思えば、その後丸一日食欲がないとか。それも、食べ過ぎて食欲がないのではなくて、食べるという人間の基本的な機能が最初からなかったかのように、何を見ても美味しそうと思えなくなったりした。
他にも、誰かと連絡を取ることが急激に億劫になって、LINEを1ヶ月以上溜めたりとか。
自分の考えていることをアウトプットすることが難しくなり、言葉がうまく出てこなくなったりとか。
それでも主観的には、「おかしいぞ」とは微塵も思わなかった。
ただ疲れているだけ。ちょっとだけ、ストレスが溜まってるだけ。
蓋を開けてみれば全然「ちょっとだけ」ではなかったのだけど、当時は、自分の感覚を過小評価することでしか、日々を乗り切る術が見当たらなかったのだ。
まずは、泥のように眠った。
睡眠負債とはよく言ったものだ。毎日ちゃんと寝ていると思っていたけど、実際は寝ている間も頭の中で「あれも終わっていない、これもやらなきゃいけない」と仕事を組み立て、思い悩み続けていたのだということに、しばらく経ってから気づいた。
夜眠りについて、次に起きたのが2日後の朝だったこともある。いくら寝ても、眠れなくなるということがなかった。
その次は、栄養のことを考えずに、食べたいものを食べた。
忙しく働いている頃は普段あまり食べたいと思わなかったお菓子も、ちょっと高いお肉も、とにかく少しでも興味のあるものを片っ端からスーパーで買って、自分のために食卓に置いた。気が済むまで好きなものを食べたら、不思議と野菜や果物も食べたくなるようになって、おざなりだった自炊を少しずつ丁寧にしていくことができるようになった。
幸い、外に出られないということはなかった。
仕事を休んでいることに罪悪感はあったけど、平日の昼間によく美術館に行った。
美術の専門的なことは何ひとつわからない。
けれど、作品の前に立って、目の前の絵を描いた何百年も前に生きた人の存在を想像する。作品を通して遥かな時空が繋がる感覚を、噛み締める。
そうすることで、「偉大なる何か」を感じることが好きだった。
そういう壮大なスケールを前にすると、自分の悩みが小さく思える。
大きな時間の流れに圧倒されてちょっと泣いたりして、涙を拭いたハンカチを綺麗に洗濯すると、私の心まですっきりするような気がした。
結局、半年ほどそんな日々を繰り返して、復職することなくその職場は辞めてしまったけど。そういう時間を与えてくれたことには感謝している。
今、社会復帰して慌ただしい毎日を過ごす中でもふと思い出すことがある。
戻りたいとは思わない。それだけ絶望していたから。
それでも、束の間の人生の休息時間として、自分を見つめ直す時間を持てたことに関して、私はいい経験をしたのだな、と思う。
人生は、近くで見れば悲劇、遠くから見れば喜劇。
チャップリンの言うことは、きっと正しい。
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