思考を停止させないこと。AIの「手」に自身を委ねすぎないように

Artificial Intelligenceすなわち人工知能は、その未知なる可能性と人々にもたらす利便性によって、おそらく人類史上最大の科学的発明となった。個人の生活とテクノロジーとが、ほぼ分離不可能になったようにも感じられる現代では、AIは各人にとって単に身近なものであるというだけではない。
あまりにも社会システムに浸透しているAIは、もはや「欠かせないもの」として認識されるまでになり、わたしたちの未来はAIと共にあると言っても過言ではないほどに世界を包み込んでいる。
ところで、AIとは一体何であったか、私はふと疑問に思った。応用範囲の巨大さと適用領域の広大さに、果たしてどれほど私はAIに浸かっているのかということにひどく困惑したのだ。私が主張したいのは、まさしくこの点である。つまりは、どこまでもミクロに、かつとめどなくマクロに影響力を及ぼすという無際限性において、AIの真価が問われるのであり、同時に極悪にもなりえると私は考える。
現時点では、AIという概念に明確な定義は存在しない。人間の知識や認識を模倣して人工的に作られた機械的知能という説明の仕方は可能だが、それは要するに何かというのを的確に述べることは難しい。したがって、AIは汎用性が高く、さまざまな事物への活用が可能である一方で、実体がないゆえに「AIとは何か」に対する定義的答えは存在しえないのである。
このような全く新しいテクノロジーの出現に、AIの持つ力を危惧する声をよく耳にする。例えば、将来、人間の仕事がAIに取って代わられてしまうとか、ChatGPTが学生に与える悪影響などに加え、AIの犯罪助長に対する懸念、さらにはAIの暴走……などがある。このような問題はたしかにきちんと対処されるべきであるが、しかし、だからAIは悪いと決めつけることには賛同できない。なぜならば、医学での進歩や社会問題の解決、金融市場での取引などにAIが多大な貢献をしていることも事実だからである。よってAIの悪用可能性という観点から一般に議論されているAIの危険性というのは、ある何かが持つ良い面と悪い面という両義性に関する問題であって、それは何事にも大抵付随するものであるから、言ってみれば想定範囲内であろう。
AIは悪用可能だから危険なのではない。私が今回、危機感を覚えたのは、無自覚にAIの無際限性に気をゆるし、意識的反省なしに自分とAIの境界を見失ってしまうことだ。AIには、用途の善悪にかかわらず、思考を放棄させるような一面をもつところがある。人間は、自分たちはあくまでAIを使用する立場であるとして疑わないが、自分でも気がつかないあいだにAIシステムの内に取り込まれ、開けた無限の可能性なるものに、今度は反対に包み込まれてしまうというような事態に陥らないようにするにはどうしたらいいのだろう。たぶん、AIの「手」は思っている以上に広範囲に及んでいる。何かわからないことがあったとき、調べようとすぐ携帯を取り出すという行為も、そのあらわれではないだろうか。
やがて知識は情報へと置換され、世界は便利で豊かなユートピアへ。
そんな世界はむしろ破滅的ディストピアである。だが、そうなるかどうかは、きっと各個人次第。自らの思考を停止させることなく、身に迫るAIの「手」に自身を委ねてしまうことのないように。私の世界は私の手で守っていかねばならない。
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