コスパからタイパが重視される現在では、AIはなくてはならない存在なのかもしれない。

でも私はAIが急速に発達するこの世界を時々怖く感じてしまう。聞きたいことを文字に打てば、1秒もしないうちにAIが回答を出してくれる。これほど便利なのに、私はAIを恐ろしいと思ってしまう。

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「AIで手っ取り早く文章をまとめたい」
「AIにいち早くこのテーマに関連する参考文献を集めてもらいたい」
「考えることすら面倒くさい。AIにレポートを書いてもらいたいな」
「レポートなんて、AIに書いてもらってもバレないだろ」

この言葉は実際に私の後輩が言っていたものである。

「大学のレポートが面倒くさいから、AIに書いてもらった。単位が来て安心した」と報告してきた後輩もいた。

後輩がどんな気持ちでこの発言をしたのかは分からないが、この言葉は私を憤慨させた。それは私が学問を重んじる人間だからだ。

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私は昔から考えることが好きで、いつか研究者になりたいと思っている。大学院に入学し、自分の研究をしているまさにその時、後輩に“AIの良さ”を語られたのだった。私はそれが良いことだとは思わないのだが。

「AIに語らせたものを、あたかも自分の考えとして提出して何が面白い?」
「それで単位が取れたと自慢する神経が分からない」

学問を重んじ、研究する私にとって「AIにレポートを書かせた!」という自慢は、学問に対するただの冒涜に過ぎないのだ。

あなたはなぜ大学に入ったの?
遊ぶため?周りの人がみんな大学に行くから?
それともお金に余裕があるから?

でも君は奨学金を借りてるよね?それは君が返さないといけないんだよ。
AIに書かせたレポートを我が物顔で自慢して何が楽しいの?
何のために大学に入ったの?

鬱憤がグツグツ煮えたぎる中、ふと友人の言葉を思い出した。

「大学なんてね、大学卒業資格を取るために行くようなものだ」

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あぁ、だからか。
それだからAIにレポートを書かせても何も思わないのか。
大学卒業資格さえ取れればそれで良いのか。

専門性とか勉学とか研究とか、そういったものはどうでもいいのか。
人間が作り出したもので人間の思考力が淘汰されていくのか。
アカデミアはこんなふうに崩壊していくのか。

私にとってAIというパンドラの匣の底にあったものは希望ではなく絶望だった。

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AIは人々に希望を与えることができる。

膨大な情報から欲しい情報を抽出できる。手間もかからない。時間も削減できる。労力も減らせる。人々にとっての希望。

そして、それは絶望にもなり得る。

信憑性がない情報に惑わされる。自分で考えることをしなくなる。楽な方へと引きずり込まれる。

楽を知ってしまえば、苦労していた頃に戻ることもできない。戻りたいとも思わなくなる。

データを集め、調査をし、研究を作り上げていくのにどれだけの労力が必要となるか。その苦労は膨大だ。

一方でAIは膨大な情報を手玉に取り、やすやすと文章をまとめてみせる。
AIを人間が活用すれば良いのだ、とある先輩が言っていた。

でも私は未だにAIとともにどうやって生きればよいのかを決められずにいる。